2024.02.18 「ありがとうございます」

 

 

こんにちわ!いつもありがとうございます💛

本日は郷里の祭り(岩手奥州市・黒石寺蘇民祭)が一千年以上の歴史に幕ということで、

今年を最後の祭りが先日、開催され幕を下ろしました。

残念に思っていたのですが、『精神世界の中心でブレイクダンスを踊る』さんが、

ブログの中で取り上げていただいたのでリンクさせていただきました。

 

祭りが途絶えることが、

霊的には決してネガティブな暗いものでは無かったということです。

上記のように紹介していただき、解説をして下さっているので嬉しく思いました。

精神世界の中心でブレイクダンスを踊る(タカテルさま)、いつもいつもありがとうございます。

郷里の記事を解説してありがとうございます!

郷里の祭りを楽しみ・大切に思っていたものとして感謝させていただきます。

 

 

 

以下、ブログ冒頭部分を詳記させていただきます。

 

岩手県の黒石寺の奇祭「黒石寺蘇民祭」が、大きく報じられていますね。

 

岩手県奥州市の奇祭「黒石寺蘇民祭」 1千年以上の歴史に幕 

檀家の高齢化と担い手不足

岩手県奥州市の黒石寺に伝わる奇祭「黒石寺蘇民祭」は17日、下

帯姿の男衆らが最後の蘇民袋の争奪戦を繰り広げ、一千年以上の歴史の幕を閉じる。

昨年末に檀家(だんか)の高齢化と担い手不足を理由に今回が最後と公表され、

境内には全国各地から多くの観光客らが詰めかけた。

Yahooニュースhttps://news.yahoo.co.jp/articles/6b6262650524b6f8356595ac18107478036f0f2c

 

 

千年以上も続いてきた儀礼の継承が絶たれてしまうことについて、

残念でならないという声が多く上がっているようです。

 

蘇民祭は、蘇民将来の説話に基づく儀礼とされます。

 

それは、貧しいながら牛頭天王(素戔男尊の別側面であり、

薬師如来の化身ともされる)を精一杯もてなした蘇民将来という男性がおり、

その子孫が将来においても守護されるようにと、

神様から護符を授かる、というお話です。

 

この儀礼が今回で最後となった、ということには、

霊的にどのような意味があるのでしょうか。

 

霊査したところ、今を生きる私たちへの

「非常に重要なメッセージ」

が浮かび上がってきたのです。

 

まず、ハッキリと申し上げておきたいことは、

今回で伝統のお祭りが最後となるということは確かに残念なことではあるのですが、

その霊的意味は、決してネガティブな暗いものなどではではなかった、ということです。

むしろその逆であり、ポジティブなメッセージであったのです。

まず、先述のように蘇民祭は牛頭天王・素戔男尊に関する祭祀なのですが、

牛頭天王とはそもそもどういう神様なのでしょうか。

 

それを知ることで、今回のニュースの意味が理解しやすくなります。

 

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下のリンクは『 姫神のコンサート 正法寺 』

のときのユーチューブメモです。

今回の黒石寺(729年行基菩薩)の隣の寺が正法寺(1348無底良韶禅師)です。

ここは北上川の東、少し上った山にお隣さんのように存在しています。

 

 

 
 

 

 

「ありがとうございます」

第五章

 37 すべてを失ったと思う時

すべてを失ったと思う時でも、神さまの愛だけは常に降り注がれているのです。

神さまの絶対の愛だけは永遠に変わらないのです。

人は神さまの愛に抱かれている自分に氣付いた時に、
初めて本当の幸せを感じることができるのです。

 

神さまの愛は、自ら否定し・無視し・拒絶しない限りは、

無限に無限に感受できるものです。

 

神さまの愛を感受できている時は、
どんな苦難・苦痛も平気で乗り越えることができるものです。

 

神さまの愛は、一切の苦痛・悲しみを癒し、

無限の無限の幸せ・喜び・安らぎ与えてくれているのです。


神さまだけに信頼を置けば、常に神さまの愛は感受できるのです。

神さま以外のものに頼るから、神さまに頼ることを忘れてしまうのです。


この世の一切のもの、儚い・虚しいものばかりです。

頼りにできるものは、何一つとして無いのです。

一瞬後には消滅して、存在しないかも知れないものばかりです。

どんなものも永続する保証は何一つとして無いのです。

人も物も、親も金も、一瞬後には消滅して存在しないかもしれないのです。


頼ってはならないものに頼るから、失望落胆することになるのです。

信頼できるのは神さまだけなのです。

 

神さまだけは、その信頼を裏切ることは無いのです。

神さまだけを信じ、
神さまだけに頼っていれば、無限の無限の幸せは完璧に保証されるのです。

神さまから遠ざかり、神さまの愛を感受できないようにしているのは、

すべて自分自身なのです。

 

自分自身のマイナス思考が、神さまの愛を否定しているのです。


どんな些細なマイナス思考であっても、それが積み重なれば、

神さまの愛を否定する心に陥るのです。

 

プラスだけを数え上げてゆく楽天主義こそが、

神さまの愛を受け入れてゆく生き方なのです。


人は本来、自分の心に神さまの全徳の無限の無限の輝きを受け入れて、

それを自分の運命・境遇・環境・世界に投影して、

心ゆくまで楽しむように、自由想像・創造の使命を与えられているのです。

 

神さまから与えられる無限の無限の幸せを感謝の心で受けて、

愛の心でこの世へ与え尽くしてゆくというのが、本来の自然な生き方なのです。

 

川上から流れてくる清流を受けて、それを活用する生き方と、

川下から汚れた水を苦労して運んできて、それを再利用する生き方を比較してみれば、

どちらがより幸せな生き方であるかは明白です。

 

それと同じように神さまからの無限の無限の幸せを受けて、
それを他へ与え尽くす生き方と、この世から小さな幸せを搔き集めて、

他に与えるほどの幸せが無い生き方と、

どちらの生き方が幸せであるかは、明々白々です。

 

 

だから先ず一番にしなければならないことは、

正しいお祈りの練習です。

 

練習を積み重ねることによって、

神さまの全徳の無限の無限の輝きを感受できるようになれば、

その無限の無限の幸せは永遠に保証されるのです。

 

 

 

ありがとうございます