2020年も、もうすぐ終わりますね。

なんか、疲れちゃいましたね。

私の半生の中でも、社会としても、個人としても激動の年でした。

まあ、ちょっとゆっくりしましょうか。

 

   *

 

昨日はゴルフコンペでした。

コロナなので、コンペ後のパーティとかもなくて、ソーシャルディスタンスゴルフでした。

マスクしながらやったので、息苦しかったー。

 

昭和の森ゴルフコースという、東京の昭島市の市街地の中にゴルフコースがあって、

すごく簡単なコースだったんですが、

前半は力みすぎて叩いたんですけど、後半は2オーバーの37だったので、

今年最後としてはけっこう嬉しいかな。

 

いろんなことが前に進まない年齢になってまいりましたが、

ゴルフだけは進歩してて、今がいちばん上手かも。(来年はもっと!)

 

カンケーないけど、タイガーウッズの息子の「チャールズ・ウッズ(11歳)」の才能はスゴイ!

顔もかわいいし、闘志もあるし、すでにスイングは完成してるし、

未来のスーパースターかも。

 

 

 

   *

 

最近、寝る時に、

「虫の音」とか「焚き火」とか「雨音」とかをループで流しっぱなしにして寝ることが多いです。

これ、けっこうリラックスできて熟睡できるのでオススメです。

 

 

 

 

 

寝る時ではないですが、

海辺の民宿でゴロゴロしてる雰囲気の環境音の動画もあって…

 

 

これ聴いてるとすごくリラックスできるんですが、

「なぜリラックスできるんだろう?」と、ふと考えました。

 

そしてこの音だけを観察しながら瞑想していて、思いました。

 

「ああ、悠久の時間の中にいると、自分の人生の小ささや焦りなどから解放されるからなんだな」と。

 

何千回、何万回、何億回も繰り返されている波の打ち寄せ、

何千回、何万回、何億回も繰り返されているセミの生死、

自分の人生などは、これと何も変わらないのだ、と。

 

これと同種のリラックスを、「作業」している時に味わったことがあります。

もう20年くらい昔のことですが、雑誌の取材で山形県の田舎になんども行って、

田植えして、稲刈りして、そのお米を炊いて食べたりしたんですけど、

おばあちゃんと一緒に何時間も稲刈りしてる最中、

そして汗だくになって、稲刈りが終わったあと、

「ああ、人類はこれと同じ作業を何世代も、何十世代も、何百世代も繰り返してきたんだな」と思い、

その繰り返しの作業の一部に自分が参加していることの安堵感、

それに似ていました。

自分を責めることが何もなくて、ただ自然の中の一部として存在してる感じ。

 

来年はそのような感覚を、もう一度得てみたいと思います。

 

カンケーないけど「ゆうきゅう」って言葉を変換すると、

みんないいカンジの嬉しい言葉になりますね。

悠久、有給、有休、遊休、みたいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酔っ払ってま〜す。

最近いろいろな人と会うようにしてるんだけど、

すると酒を飲むわけなので、許してくらさい。

んで、この日記も、日記ですらなくて、ただの「書きなぐり」になってしまうかもしれないけど、

許してくらさ〜い。

 

   *

 

最近、人と会うと、

会う人がそれなりの年齢で、すでに何年もの付き合いのある人であることが多いので、

「オマエって○○なヤツだよな〜」という話になりやすい。

 

で、自分がそういう発言すると、やはり、逆に

「モトギって、○○なヤツだよな〜」と言われる。

 

で、よく言われるのは

「オマエって、いつもどこか必ず醒めてるよな」

だ。

 

確かにこれは自分でも自覚している。

どれだけ酒を飲んで酔っ払っても、

どれだけ興奮して楽しんでいても、

どれだけ悲しみや憂鬱に苦しんでいても、

それとは関係のない「もうひとりの自分」が、自分自身や周囲の環境や状態を

常に「観察している」

 

「観察している目」

これは消えることがない。

それが自分なのだと思う。

要するに幼児の目だ。

 

「観察している自我を失う時」は、死ぬ時だ。

 

   *

 

言い方はめちゃくちゃ悪いけれど、

あらゆる表現者は、かならずどこかで「人を見下しているとも言える側面があるのかも」と思うことがある。

 

世の人がすべて生物学的見地で自分と同格かそれ以上だ、と思っていたなら、ダーウィンは「種の起源」を記さなかっただろう。

世の人がすべて音楽的見地で自分と同格かそれ以上だ、と思っていたなら、米津玄師はアルバムをリリースすることはない。

世の人がすべて容姿的見地で自分と同格かそれ以上だ、と思っていたなら、山﨑賢人はテレビに出てこない。

 

かなり穿った見方ではあるだろうけれど、でも、そうなのかもしれない。

 

あらゆる表現者の根底には「自分には人にない優れたものがある。それを評価してほしい」という気持ちがある。

その気持ちがなくなってくると、人は表現をしなくなる。

 

   *

 

自分はどちらかというと仏教徒なのだけれど、(インド哲学的でもある)

そもそも仏教というのは宗教ではないので(なぜなら神とか創造主とかいう存在にはノータッチだからだ)

アミニズム的な自然崇拝の多神教や、日本人のルーツを祀る「お墓まいり的な」神道などは別にして、

「一神教」というものを信じない。

そもそも、「確証もなく、ありえない確率のほうが圧倒的に高いものを信じる人」を、信じない。

 

※余談だけど、

主にキリスト教徒の国であるアメリカは、なぜ世界貿易センタービルを破壊された時、エンパイアステートビルを差し出さなかったのだろう? 右の頬をぶたれたら左の頬を差し出すんじゃなかったっけ?

でなければ、何のための宗教?

 

 

私が信じているものは「科学」だ。

科学のすばらしいところは

「それは間違い」とわかると、その瞬間に、まるで掌を返すように素直にそれを認めてしまうところだ。

そして「わからないもの」は、「わからない」という大前提で仮説を立てて前進しようとするところだ。

私はその「素直」で、「論理的」で、「前向き」なところが好きだ。

 

 

 

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M1グランプリをテレビで放送されるたびに

「え? もう1年経ったの? 早っ!」って思う。

ぺこぱとミルクボーイに大笑いしてたの、ついこのあいだのような気がするもんね。

 

しかし、昨年が大笑いしただけあって、今年は期待が大きすぎたせいか、

いまいち大笑いできなかった。

去年は3組ともアイデアが斬新だったけど、

今年は「ツッコミのはっちゃけぶり」で笑わそうというトレンドで攻めてる感じがした。

 

マヂカルラブリー、やっていけるんでしょうかね。

CMやMCでツッコミを絶叫するわけにもいかないでしょうし。

 

   *

 

今年ももうすぐ1年が終わる。

自分にとっても転換点の年だった。

 

今はなぜか、何にもテンションが上がらない。

でも気分が落ちてるわけでもない。

まるでロボットにでもなった気分。

指令を受けてないロボットか、AI。

 

瞑想をやってると、そんな感じになりやすい。

 

   *

 

最近、海外長期滞在の帰国者と会う機会が多くて

ロンドン(兄)、カナダ(友人)、中国深せん(昔の同僚)、ソウル(友人)、バリ(友人)

と話したんだけど、

バリ在住者以外、の4人が口を揃えて言うのは

「日本は遅れてる」という言葉。

 

再生可能エネルギーの問題とか、IT化の問題とか、ビッグテータの活用の問題とか、新ビジネスの発案頻度とか。

「このままだと先進国ではなくなってしまう」とも。

 

「イギリス人に言われたくねえよ」とも思ったけど、

僕がヨーロッパに行ったのは大昔なので、今のことは何も知らない。

でも確かに、なんか、日本の進歩は止まった気がする。

最近生まれた人にはわからないと思うけど。

「進歩しなくちゃいけない」わけではないけれど。

 

 

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ああ、

贔屓の選手とかチームとかを本気で応援するのって、

もしかしたら「ギャンブル」に似ているのかもしれない。

あまりやったことないけど、競馬に似てるのかもしれない。

 

日本の場合、

もちろん贔屓の選手が勝ってもお金がもらえるわけじゃないけど

真夜中まで起きて、LIVEで、疲れるまで5時間も応援する、その消費するエネルギーと時間、

それ以上のものを何割かの確率で「勝利」の瞬間、キャッシュバックされる。

そして、それを求めて応援していることに自分は気がついた。

 

キャッシュバックされる配当は、歓びの脳内麻薬だ。

 

日本人を応援しがちなのは、「配当量」が高いからですね。

同じ民族の人を応援したほうが、明らかに勝利の時に分泌される脳内麻薬の量が多い。

 

今回の渋野日向子さんの応援をしたのは、

歓喜を呼ぶ勝利の確率が50%以上で、全英オープン優勝の時の脳内麻薬の量と質をよく覚えていたからだ。

(でも結局は渋野日向子さんのファンだから♪)

 

   *

 

スカーレット・ヨハンソンとユアン・マクレガーが主演の

「アイランド」という映画をNETFLIXで観た。

 

ネタバレになるので内容は書かないけど、かなり面白い。

とにかく、「ストーリーの核となるアイデア」が秀逸なのだけれども、

話が進んでいくうちに、

「あれ? このストーリーのアイデア、知ってるぞ????」

と思った。

 

なので、制作と発表の年度を調べてみた。

「アイランド」の公開日、2005年7月23日。

ジャンプコミック「約束のネバーランド」の連載開始、2016年8月1日。

 

なるほど、設定を変えて細部を複雑化させていけば、パクリにはならないということか。

最近、すごく多いなぁ。

…というか、歴史が積み重なるうちに、もう、新しいアイデアって出てこなくなるからしかたないのかもしれない。

 

半世紀以上生きていると、「アイデアの拝借」に関しては、日本はかなり寛容になった気がする。

…というより、

アイデアの借用に目くじら立てるより、

「面白い設定の世界をもっとバリエーション豊富に楽しみたい」という感情のほうが優先されているのだろう。

そんなこと言ってたら異世界転生モノとかゾンビとか、アイデアの根幹は同じなんだしね。

 

あとね、

ハリウッド映画がそもそも「アイデアの拝借の方法」が上手くなってるので、

みんなそれを真似してるような気がする。

つまり訴訟大国のアメリカで「ここまで設定を変えればパクリにならない」という訴訟ラインが確立されてるわけね。

 

たとえば「ライオンキング」と、手塚治虫の「ジャングル大帝」

「ハンガー・ゲーム」と、「バトルロワイアル」

映画「イェスタデイ」と、かわぐちかいじ画・藤井哲夫原作の「僕はビートルズ」

 

製作者の誰もが知らなかったわけがない。

(映画「イェスタデイ」は偶然発想がカブった可能性はあるね。でも知ってて「タイムスリップ」→「パラレルワールド」に設定を変更したという可能性もあるね。神のみそ汁だ)

 

トムクルーズが主演した映画「All You Need is Kill」は、原作と内容とか細部とかが、かなり変わってたけど、

原作も題名も桜坂洋さんのままになってて、

これなんかは、ギリアウトなレベルなんだろう。

タイトルも英語圏では秀逸だし、

著作権料を莫大に払ったとしても、それ以上に大事な設定を残したままのほうが収益に有利と踏んだのだろう。

でも別の国だったら、そのまま別の題名でシレっと無断拝借させられちゃっててもおかしくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

   *

 

ちなみに昨日のNETFLIXで第2位の視聴率だった、山﨑賢人さん主演の「今際の国のアリス」は

ちょっと複雑だ。

 

無人の渋谷の街で、スマホから指示される残虐なゲームに理不尽に参加されさせられて生死をかける

…というアイデアはチャンピオンコミックスの「ダーウィンズゲーム」に似てるけど、

「今際の国のアリス」のオリジナルであるコミックスは、週間少年サンデーSで2010年12月号から連載開始。

「ダーウィンズゲーム」のほうは2013年1月号から別冊少年チャンピオンで連載なので、

「今際の国のアリス」のほうが早い。

 

それに、「残虐なゲームに理不尽に参加されさせられる」というストーリーは、わりとよく使われる手法なので、

その舞台が無人の渋谷で、手段がスマホというのも、まあ現代を舞台にするなら「偶然カブッてるよ」の範囲なのかも。

 

ただ、第1のゲーム(3の「げぇむ」)のアイデアは、

1997年製作のカナダ映画「キューブ」の完全にパクリだった。

(知らないとは言わせねえぜ)

 

…と思って、調べてみたら、

NETFLIXのほうの実写ドラマと、麻生羽呂さん原作のコミックでは、いろいろと違うことがわかった。

第1のゲームの場所も渋谷じゃないし、

ゲームの内容も「キューブ」の丸パクリじゃなかった。神社のおみくじだそうだ。

 

なるほど、ドラマの製作陣がパクラーだったのか。

ぜひ原作のほうをきちんと読んでみねば。

 

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昨日(今朝?)は真夜中の1時に起きて5時までゴルフ観戦。

渋野日向子さんが全米女子オープンで2位と1打差のトップで最終日を迎えたのだ。

これはLIVEで応援せねば、と思って、ひさびさの真夜中観戦となりました。

(アメリカの試合が時差的にいちばんキツいね)

2晩続けてなので、ねむいねむい。

 

でも、結果的にはズルズル後退して首位と2打差の3位で終わってガックリ。

朝の5時からまた寝床に入って寝ましたとさ。

 

やっぱ、どれだけ粘ったとしても、

大事なところでスーパーショットを放つなり、超ロングパットを入れるなりしないと

メジャー大会では優勝できないんですね。

優勝者は、あがり3ホール、スーパーショットで連続バーディーですもの。

「優勝するのはあの選手しかないでしょ」ってカンジで諦めもつく。

(でもシブコ、これからも応援してるよ!)

 

 

人の応援って、ほんと疲れるわ。

それがラグビーワールドカップ日本代表みたいな結末だと(優勝したわけじゃないけど)

歓喜の脳内ホルモン大爆発で「報われた」ってカンジなんだけど、

そうじゃないことのほうが多いので、

僕はあまり贔屓の選手とか球団とかを持ってスポーツ観戦はやらない。

(ドーハの悲劇は、僕の脳内悲劇でもあった。まだあの感触覚えてる)

「日本人が世界の大舞台で、活躍できるかどうか」という大事な試合しか

本気で応援していない。

でも、なぜ日本人だと「応援しよう」って気持ちがここまで強くなるんだろう?

 

ちなみに、全英ゴルフの時の渋野日向子さんの時も

松山秀樹さんの初優勝の時もそうだったけど、

こういう「日本人の優勝を願って応援するゴルフの試合」っていうのは、

ふだんのゴルフ観戦とは、まったく別物。

別のスポーツというか…、

いや、スポーツですら、ない。

 

シブコのパットに「入れ!」と叫ぶのは、まあ、いいとして、

それ以外の選手がパットを打つたびに「入るな!」って願ってしまうのは、

ゴルフをやる者としては「あるまじき行為」だと感じてしまう。

つまり、あるまじき観戦方法をしてるので、

別物に感じてしまうのだ。

まあ、しかたないけど「ゴルフを観てる」ってカンジではないなぁ。

 

 

 

そして、真夜中の応援を終えて、思った。

人の応援してないで、自分の応援をしてみよう、と。

 

自分がどれだけテレビで応援してても、それは、届かない。

 

本当は、

衆議院総選挙の投票みたいに「塵も積もればなんとやら」くらいの素粒子的な重みで

人々の応援が数万、数十万、数百万、数千万も集まれば

メディアを介してそれが選手の「後押し」をすることがわかっているし、

 

さらに言えば、会場で声を出して応援して、それがダイレクトに選手の耳に届くなら、

それがわずか数十、数百の数でも、選手のモチベーションに明らかに作用する。

だから世間では「みんなの応援が力になりました〜」みたいなやりとりが美化されて

「大事なもの」として扱われている。それはわかってる。

 

でも現実世界の実感として、

誰も知らない世界の片隅で、独り、真夜中のTV画面の中のロングパットに「入れ!」って叫んでも、

そのパットは入らない。

いや、

「入る、入らない」の、どちらにもまったく影響することがない。

 

僕の応援は、ほぼ、意味がない。

影響力、ゼロだ。

 

でも、自分で自分を

「あきらめるな、まだやれる、頑張れ!」って応援した場合、

その応援は、テレビの中にいる人を応援するのとはぜんぜん違って

自分自身に、ものすごい力を与えてくれることを知っている。

 

真夜中のTVで人のプレーの応援することに比べたら、

およそ数千万倍のパワーがあるし、ダイレクトにそれは反映される。

 

先日のテニスで逆転した時も、そう思った。

逆転したきっかけは、わずか1ゲームしかとれてないゲーム終盤の自分のサーブの時、

「あきらめるな、まだ逆転できる、頑張れ!」って自分で自分を応援した、その時だ。

あの時、自分を鼓舞しなければ、明らかに、簡単に、負けていた。

 

自分への応援は、めちゃくちゃ意味がある。

効果がある。

テレビ観戦の応援と比べたら、何千万、何億倍もの効果と、確実な影響力。

 

これをしないでおくのは、もったいなくないか?

 

渋野さんの応援をしていて、それが終わって寝床に入る時、

こんどは、自分で自分を応援してみよう、と思った。

そしてその応援をするためには、

何かの目標に向かってもういちど、真剣に「打ち込んでみる」ことが必要だと思う。

 

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