一般に古流柔術における当身(打撃技)では、空手の正拳突きのような突きは稀と言われる。正拳突きとは身体側面に手のひらを上向きにして拳を構え、内旋させながら手の甲を上に向けて突く技である。これに対して、柔術では空手でいう縦拳か裏突き(手のひらを上に向けた突き)を多く用いる。

 

柔術の突き。井口義為『殺活自在柔道極意教範』(1934)より。

 

拳の握り方は柔術では親指を四指で包むやり方が一般的で、また肘も上図のように伸ばしきらない。高橋賢『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』(2007)によると、武田惣角の突き方も古流柔術と同様であったという。

 

武田先師の「突き技」には、肘打ち、手刀打ちなど独特の技が含まれていた。だが、武田先師の「突き」は、おおむね拳の手掌(手の平)側を上にする「突き」か、拳の親指を上にする「突き」(空手の縦拳突き)であった。いずれも古流柔術特有の突きであり、拳をひねりながら手甲側を上に突き出す空手のような正拳突きはなかった(272頁)。

 

 

また、武田惣角の拳の握り方も親指を包む古流柔術のやり方だったという(同上272頁)。ただ今日、大東流の本や動画を見ると、空手の正拳突きと同様の突き方をしている例も散見される。

 

 

 

上の写真のように、受(攻撃側)が左手を下段に構え、右手を引手から中段正拳突きし、同時に左手を引手に構える突きは、空手の突きに類似する。

 

上の動画の「総伝」と呼ばれる技は、久琢磨の系統に伝わる技である。久氏は武田惣角と独立前の植芝盛平に師事し、教わった技を写真に撮影して「総伝」(全11巻)として解説を付けて冊子にまとめた。

 

古流柔術では、上の『柔道極意教範』の図にもあるように、突き手と反対の手は腰前に構えて、空手のように引手の位置に取らない場合が多い。

 

 

武田氏が大阪朝日新聞の道場で久氏に教えた技は必ずしも伝書通りではなかったらしい。しかし、総伝の内容はたしかに武田氏が伝えた技だということは、子息の武田時宗が保証している(『武田惣角と大東流合気柔術』)。すると、上の空手風の突きは武田氏か植芝氏が教えた技ということになる。

 

また、戦前の植芝氏の握り方を見ると、親指を包み込まない空手風の握り方をしている写真がある。

 

植芝盛平の縦拳と裏突きによる諸手突き。昭和11(1936)年、野間道場。出典:Pinterest

 

上の写真は植芝氏が大東流からの独立を模索していた時期に撮影されたものである。こうした空手風の突き方や握り方が武田氏より伝わったものなのかは慎重に検討する必要がある。武田氏の実技写真はほとんど残されておらず、本人が伝えた技か弟子が付加した技か判断するのは難しい。また、戦後の演武となると、演武者が空手経験者の場合、空手の「癖」が無意識に出てしまった可能性もある。

 

仮に空手風の突き方や握り方が武田氏から伝わったものだったならば、それは沖縄での「武者修行」の成果だったのであろうか。大正時代末期になると、船越義珍や本部朝基が東京や大阪で唐手の教授を開始しており、直接道場を訪問したかは別にして、唐手を見る機会もあったかもしれない。また武田氏の弟子には佐藤啓輔(船越義珍門人)もいたから、そこでも唐手との接点があった。

 

大東流の当身は、全体としては手刀、縦拳、裏突きが多く、また古流柔術同様、その用法はあくまで補助的であり、当身だけで相手を打倒することを目的としていない。

 

しかし、上で考察したように、空手風の突き方や握り方も散見される。また大東流では蹴り技も用いられる。蹴り技も古流柔術にはあるが、突き以上にその使用は限定的である。植芝氏の合気道では蹴り技は削除された。

 

なお、武田氏が沖縄へ渡ったとされる明治12(1879)年には、まだ空手という言葉も唐手(からて)という言葉も存在せず、一般には手(ティー)と呼ばれ、その中に沖縄手や唐手(とうで)の分類があった。

 

いずれにしろ、武田惣角に沖縄武術の影響があった可能性はあるが、弟子が付加した部分との区別が難しく、考察は慎重に行う必要があるであろう。なお、この記事を書くにあたって、大東流や古流柔術を修業している本部流門人にも意見を聞いた。

 

 

参考文献

平上信行『秘傳古流柔術技法』愛隆堂、1992年。