雑誌『秘伝古流武術』(1992年第10号)の八光流の特集に以下の文章がある。
もう一つ、八光流柔術に関してよく知られている書籍に『奥山龍峰旅日記』がある。そこには「大武田を首締で落とす」「三船氏参る」「植芝氏逃げる」として大東流合気柔術で有名な武田惣角や柔道の三船久三〈ママ〉十段が首締で落とされたり、合気道の植芝盛平氏が試合を拒んだといった内容が記されている。こうしたことには疑問が持たれ八光流は事実無根を宣伝する、まやかし武道ではないかといった疑いの目で見られる原因ともなっている(14頁)。
以前から奥山氏の著作の信憑性には疑問を呈する向きがあるが、上記の逸話はそれらの代表的な例である。ちなみ自伝『奥山竜峰旅日記』(1958)では、これらの逸話は奥山氏自身ではなく柔道家でのちに八光流に入門した村井顕八のものとして紹介されている。
上記の逸話は著名武術家の名誉に関わるものであるが、『旅日記』には村井氏の証言以外、何らの出典も記されていない。また、『旅日記』出版以前にはこれらの逸話にふれた文献は、筆者が調べた限りでは見当たらなかった。したがって、同時代資料等が見つからない限り、現状では真偽不明と言わざるをえない。
また、同じ『旅日記』には、奥山氏の「総理大臣就任」の写真が掲載されている(18頁)。
言うまでもないが奥山氏が戦前総理大臣に就任した事実はない。写真には以下の説明文が添えられている。
北海全道から八十名の代議員を選任し、愛国党総裁として第一次雄弁帝国青年議会に於て首相に就任、旭川市松竹座に三千の聴衆を集めて、昼夜に亘り経国の一大攻防戦を展開した、壇上は施政方針を演説する奥山首相
上記の写真と説明文から、一見北海道の地方議会の集会のようにも思えるが、当時北海道の議会は札幌市にあり、旭川市の演劇場で催されるはずはない。また奥山氏は政治家になったことはない。
実は、これは「第一次雄弁帝国青年議会」という名称で行われた弁論大会の写真であり、奥山氏はそのとき総理大臣「役」を務めたのである。
戦前、帝国議会を模した弁論大会が開かれることがあった。奥山氏は青年時代から弁論術に熱心で、愛国主義者として上記の弁論大会に総理大臣役として出場した。このように奥山氏の著作には読者のミスリードを誘うような記述がしばしば見られる。
さて、前回の記事で引用した沖縄タイムスの奥山氏の来沖を伝える記事(1961年2月22日)では、長嶺将真(松林流開祖)は八光流沖縄支部の人と紹介されていた。しかし、そのときまだ沖縄支部は発足していなかったと述べた。当時の機関誌『八光流』や同誌記載の地元紙記事によると、沖縄支部の発足は来沖から11日後、沖縄講習会の修業式が行われた3月3日であった。
来島中の八光流本家指南奥山龍峰氏では、三日午後三時から沖縄荘で「八光流沖縄支部」の結成会を行った。
のちの回想ならば記憶違いだったという弁明も成り立ちうるが、この場合来沖時に語ったことなのでそれは成り立たない。このように奥山氏はときに事実の時系列を操作して、読者が真実とは異なった印象を抱くように情報を発信している場合がある。
さて、3月3日の修業式の際、長嶺先生は四段証書を授与された。奥山氏の主張では八光流の講習会に参加した時点で門人だということになるが、長嶺先生にしてみれば懇意にしていた小西康裕(神道自然流宗家)に協力を依頼されて、奥山氏の講習会の手伝いをしただけだったはずである。修業式で四段証書を受け取ったのも、その場で固辞すれば場の雰囲気が悪くなりかねない。社交辞令として、一種の感謝状として受け取り、奥山氏が帰朝するまでは主催者の役目を果たそうとしたのではあるまいか。
というのも、その後長嶺先生が発足した沖縄支部に所属したり、八光流門人として何らかの活動を行った形跡がないからである。少なくともその後の機関誌を見る限り、長嶺先生の門人活動は記されていない。
そして、翌年の第2回沖縄講習会では長嶺先生は主催を外れ、代わりに渡山流の兼島信助が務めることになった。おそらく奥山氏の帰朝とともに、長嶺先生は八光流とは関わらないようにしていったと思われる。
いずれにしろ、奥山氏の著作には事実と証明できない記述、また明らかに事実と異なった記述が見受けられる。また支部や門人の概念でも、一般の社会通念とかけ離れた独特の理解をしており、そのことが講習会参加者と間で度々のトラブルを引き起こしたようである。
参考文献
『秘伝古流武術』1992年第10号、BABジャパン出版局、1992年。
奥山竜峰『奥山竜峰旅日記』八光塾本部、1958年。
『八光流』第18・19号、八光塾出版部、1961年。