沖縄タイムスの「”柔術を指導したい” 八光流の奥山竜峰氏来る」(1961年2月22日)の記事に以下の文章がある。

 

日本護身武芸八光流宗家の奥山竜峰氏は、沖縄八光流支部結成強化のため、二十日午後一時半のCAT機で夫人とともに来島した。

八光流支部の長嶺将真氏と宗家初代奥山竜峰直門の島袋全常師範の招請によるもの。二週間の滞在で支部強化をはじめ、那覇、コザ、名護で講演会や実技指導を行なうことになっている。

奥山龍峰氏の話 長嶺、島袋氏と支部強化をはかり、八光流柔術の普及に努力するつもりです。

(中略)

日程はつぎの通り(いずれも午後六時から)

▽二十三日コザ市、コザ琉米センター(予定)▽二十四日名護町、二十五日那覇市▽二十六日から三月三日までは長嶺空手道場で指導する。


上記によると、昭和36(1961)年2月から3月にかけて、沖縄で八光流の講習会が開かれた。この講習会は「沖縄支部」の長嶺将真と島袋全常各氏が奥山氏を招請したことによるもので、目的は沖縄支部の強化と八光流の普及促進のためであった。

 

また、八光流の機関誌『八光流』(第18・19号、1961年)には、奥山氏と一緒に写る長嶺先生の写真が掲載されている。

 

「前列左端、長嶺将真四段」。前列中央は奥山龍峰。

長嶺将真

 

さらに同誌の「沖縄に使して」には、2月20日の奥山氏の沖縄到着の様子が書かれている。

 

安里の第一ホテルに案内され、島袋全常師範、長嶺将真四段、上原憲一三段に電話で連絡、集合を願い滞在中のスケジュールを組んで頂いた。(中略)夜は長嶺、島袋両君による歓迎宴が花柳街松華楼で開かれ、本場の料理と琉球舞踊を満喫した(18頁)。


ここでは長嶺先生は君付けされて八光流の四段だと書かれている。また同記事には長嶺先生について以下のような記述がある。

 

琉球警察学校で公開指導

翌二十五日午前十一時から長嶺四段、新里三段を帯同し、琉球警察学校で公開講演を行った。

(中略)

首都那覇市で講演

その日午後六時から沖本会館で那覇市の公開講演を行つた。劈頭新里一郎三段、私は那覇中学を出たものだが、八光流を信じられなかつたという体験談から始めて開会を宣し、長嶺将真四段(沖縄空手道連盟会長)私は八光流の門人として、宗家先生をお迎え出来たことは洵(まこと)に感激にたえないと主催者の挨拶をされた(20頁)。

 

上記によると、奥山氏は長嶺先生を「門人」として帯同し、警察学校や沖本会館で講演を行った。長嶺先生は奥山氏をお迎えできたことは主催者として感激にたえないと挨拶したという。

 

さて、上原清吉と本部御殿手が有名になりだすと、上原先生がかつて八光流の講習会に参加していた事実を掘り返して、取手は八光流から学んだものだと事実無根の中傷をする人が現れた。金城昭夫氏もその一人である。たしかに上原先生は八光流の講習会に参加したが、あくまで一参加者としての立場だった。そもそも最初に奥山氏を沖縄に招請して講習会を開いたのは長嶺先生である。

 

しかし、上記には嘘もある。詳細な経緯は以下の通りである。

 

八光流は大東流合気柔術から分派した新興流派で当時流派の規模拡大を狙って各地で頻繁に講習会を開催していた。奥山氏は沖縄でも講習会を開きたかったが当時はまだアメリカの施政下でツテがない。そこで当時八光流の顧問をしていた小西康裕に頼んで、長嶺先生を紹介してもらった。

 

親切な長嶺先生は八光流の講習会の主催を引き受け、また道場を貸すことにも同意した。当時の沖縄にはまだ空手の専門道場をもつ流派は少なかった。

 

長嶺先生は奥山氏にそれまで会ったことはなかったし、もちろん長嶺先生やその道場は八光流の支部ではなかった。そもそも当時まだ沖縄支部は発足していなかった。しかし、奥山氏は到着早々、地元紙に長嶺先生を沖縄支部の人だと虚偽の情報を流した。沖縄は地元紙のシェアが高く、地元紙に記事が載ると瞬く間に県内に噂が駆け巡る。長嶺先生はおそらく上記の記事をあとで見て驚いたであろう。

 

また、奥山氏は沖縄講習会の最終日の3月3日に長嶺先生に確かに四段の証書を授与している。しかし、上記の警察学校や那覇市での講演では、まだ長嶺先生は四段ではなかった。長嶺先生にしてみれば、感謝状くらいのつもりで四段証書を受け取ったに違いない。もちろん八光流の門人になったつもりもない。しかし、八光流の機関誌では、後日門人扱いされて上記の記事が掲載された。

 

このように奥山氏は一度でも講習会に参加すると、その人を門人扱いする性格であった。筆者は以前、八光流元師範の安田秀則氏にインタビューしたことがあるが、沖縄の空手家はこの奥山氏の独特の態度に憤慨していたという。

 

八光流の講習会にはその技に魅せられて参加した人たちもいたであろうが、長嶺先生のように頼まれて参加した人や、上原先生のように沖縄空手界の付き合いで渋々参加した人たちもいた。それなのにいきなり支部だ門人だと言われたら、憤慨するのも当然である。当然、長嶺先生はその後自身の経歴に八光流四段を記載することはなかった。

 

しかし、このような事情を知らされないで、上記の記事を切り抜かれて、後日武道雑誌などに掲載されたらどうなるであろうか。いくら否定しても、「当時の新聞に支部と載っているではないか」、「四段だったら10年くらい師事していたのではないか」、「一緒に写っている写真があるのに関係を否定するとは恥知らずだ」と言われるかもしれない。

 

実際、事情を知らない一部の人たちは上原先生にそのような中傷を行った。ちなみに上原先生はこのときの講習会には参加しておらず、翌年の第2回目の講習会に参加した。次回はそのことを書こうと思う。

 

 

参考文献

『八光流』第18・19号、八光塾出版部、1961年。