来年は宗家(本部朝正)が2003年に上原清吉から本部御殿手宗家を継承して20周年になる。この機会に、宗家継承の経緯について改めて述べておこうと思う。

 

「達人が伝えた武の遺産、ふたたび本部家へ」『月刊秘伝』2004年7月号。

 

もともと本部御殿手は御主加那志前の武芸(ウシュガナシメーヌブジー)と呼ばれていた。「琉球国王の武術」という意味である。また戦手(イクサディー)とも呼ばれていた。

 

本部御殿手は取手(投げ技・関節技)がクローズアップされがちだが、主眼は武器術、しかも刀や槍といった戦場で使う武器術にある。おそらく琉球が再び薩摩の支配から脱して独立したとき、国家として武術が必要になることを見越して、本部御殿が王家の一族として実戦武術=戦手を保存していたのではないかと思う。

 

この御主加那志前の武芸は本部御殿の長男しか継承を許されない一子相伝の武術であった。長男といっても夭折することもあったであろうから、実際は嗣子(跡継ぎ)だけが継承する武術としたほうが正確かもしれない。

 

廃藩置県後は本部朝勇が継承者であったが、3人の息子たちは生活のため本土に移住してしまい、継承の危機を迎えた。長男の朝明は「本部御殿のパッサイ」を残すなど、若年の頃は武術を稽古していたが、大阪に来てからは普段は稽古していなかった。そこで朝勇先生は次男の朝茂に継がせることにした。

 

しかし、和歌山に住む朝茂先生に直接教えることは困難なので、上原先生にいったん技を教えて、上原先生を和歌山に派遣して伝授することにしたのである。そして、上原先生から朝茂先生に伝授されたので、戦後上原先生を本部御殿手の第12第宗家、朝茂先生を第13第宗家とした。

 

しかし、本部御殿手の宗家は本来本部家の人間しか継承できないので、上原先生には宗家を名乗ることにためらいもあった。それで遠慮して宗家ではなく「師家」と名乗っていた時期もあった(注)。

 

 

 

この事実はあまり知られていないが上記のように上原先生を師家と紹介している文献もある。しかし、朝茂先生が大阪空襲で亡くなり本部御殿手の継承者は上原先生しかいなくなったのだから宗家を名乗る資格があるという弟子の進言を聞き入れて、宗家を正式に名乗ることにしたのである。

 

しかし、上原先生は本部御殿手を本部家に返すという朝勇先生との約束は忘れていなかった。それで、1976年に朝正宗家に正式に本部御殿手の継承を要請したのである。当初、朝正宗家は固辞して長男家の武術なら朝勇の孫の本部朝達氏が継ぐべきだと主張したが、朝達氏からは継承を断られたと言われたので、継承を受諾したのである。

 

上原清吉と本部朝正、沖縄、2003年。

 

そして、2003年、上原先生の白寿の宴の席で正式に宗家継承が行われた。朝正宗家のほうから上原先生に宗家を継がせてほしいと言ったことは一度もない。あくまで上原先生が三顧の礼を尽くして要請されたので継承を受諾したのである。最近事実と異なる説を流布している人の文章を読んだが、正確な経緯は上の通りである。

 

 

注 上地完英監修『精説沖縄空手道』上地流空手道協会、1977年、773頁。