今朝の沖縄タイムスでも報道されていたように、本部御殿墓がこのたび宜野湾市の史跡に指定されました。

 

宜野湾にも王族の墓 市史跡 「本部御殿墓」 尚質王6男の一族眠る

 

 

御殿墓は王族の墓で、第ニ尚氏に関わる墓としては、国王の墓である玉陵(たまうどぅん)や浦添ようどれ等に次ぐ重要な墓で、すでにいくつかの御殿の墓は各市町村の文化財や史跡に指定されています。

 

本部御殿墓は2012年より宜野湾市教育委員会によって調査されてきました。そして、このたび、学術的価値が認められ史跡に指定された次第です。

 

本部御殿墓は、本部朝勇をはじめとして本部御殿の歴代当主とその家族が眠る墓であり、沖縄の空手・古武道に関係する墓としても、史跡の指定は大変意義があると思います。以下に史跡の指定理由を掲載しておきます。

 

指定の理由 

1)指定基準 
宜野湾市文化財指定・認定等基準に関する要綱(教育委員会訓令第6号) 第6 市指定史跡名勝天然記念物指定基準 1史跡の部次に掲げるもののうち宜野湾の歴史の正しい理解のために欠くことができず、かつ、その遺跡の規模、遺構、出土遺物等において、学術上価値のあるもの 

(8) 墳墓及び碑 
2)説明 * 本部御殿墓は我如古に所在する亀甲墓で、第二尚氏王統第10代尚質王の六男・尚弘信、 本部王子朝平を元祖とする本部家が掌握する墓である。墓眉の両端の反りは緩やかで、これまで市域で造墓年代が把握されている古式亀甲墓と類似する。墓室正面は、あいかた積み、 その左右に展開する袖石は、布積みで2段、墓上部の亀甲部分は全面に石が敷かれている。 
墓庭は、前庭(一番庭)と外庭(二番庭)に分割されており、高低差は1mあることから 宜野湾御殿墓と同じく、墓庭入口より墓室正面に至るまでに高低差を設けることにより、被葬者の身分(王族)の高さと御殿墓として格式の高さを表現していると考えられる。また、 御殿墓全体を縁石で囲むように石を配しており、頂上部分は更に石敷きを施している。 
墓室内は、天井をアーチ状に組み、奥側と両側に1段ずつ棚が設けられ、合計10基の厨子甕が確認されている。奥側棚の中央の石灰岩製の石厨子に刻まれていた銘書から、元祖である本部王子朝平と妻の遺骨が納められていることが推察される。 
当初首里末吉に安置されていた遺骨を我如古に移した、との「王代記」の記述に準じると、元祖朝平が洗骨された康煕 33年(1694年)以降に当該墓が造られたと推察することができる。 
また、墓庭入口の北側に残る里道は、直線でなく数十mごとに直角に折れ曲がっており、 一門に伝わる伝承では、墓の敷地が2,000坪(6,600 m)であったと伝えられていることから、造墓当時の墓域はかなり広大で、上述の里道も本来墓域内に位置すると考えられることからヤナムンゲーシ(魔除け返し)などの意味をもった墓の参道であると考えられる。 
本部御殿墓は、王族と当時の宜野湾間切との関係・古式亀甲墓の造り、変遷等の研究に非常に価値あるものである。 

 

筆者は2012年に宜野湾市教育委員会に連絡を取り、本部御殿墓の調査を依頼しました。当時の文化課の課長が古墓の専門家で、御殿墓に大きな興味を示してくださり、宗家、私と一緒に、本家の故・本部朝達氏を入院先の病院へ訪ね、調査の承諾書をもらいにいきました。残念ながら、朝達さんはその後亡くなられましたが、あとを継がれたご子息の理解がありこの度史跡に指定されて大変良かったと思います。なお、本年より修復工事が予定されています。