以前にもお話したことがあるが、あたしは、じぶんと同じ病気を抱えるにんげんと群れようとは思わない。
お互いに慰め合い、甘え合うのを好かん。
そういう仲間は、その病状に確かに理解を示してくれる。
じぶんもつらい思いをしているので話が早いしな。
だが、そのあとに出てくるのは社会や健常者への不満だ。
あのひとらは解らんから、、的な悪口だ。
だから、ここでも同じ突発性難聴や重度難聴のにんげんらに話しかけたことはない。
病気やこころを治すのは、同じ仲間では治らん。
じぶんのしたいことややりたいこと、楽しいことは、その仲間のなかにはない。
あたしが綺麗だ、可愛い、美しいな、楽しいなぁと思うものは、健常者らがいる場所にある。
理解のない、冷たい、ものを知らない薄っぺらいヤツらのいる場所に、それらはある。
だから、どんだけ傷ついても、つらくても、家に帰って過呼吸になろうとも、狂いそうに泣き叫んでも、その世界へ行く。
メンタルが弱っている患者は、人を慰めている余裕はないはずだ。
それでも、慰めたり元気づけるコメントを入れる人は、相手に発しているのではなくじぶんに向けた言葉でしかない。
そして、じぶんよりも弱っているひとがいると、わざと励まし、優位になっている。
だから、その相手が元気になり、仕事でも再開しようものなら、コメントを入れなくなる。
あくまでも、自分と同じ、いや、自分以下で堕ちているひとだから声をかけるのだ。
アドバイスをするのだ。
じぶんが治った気になるからね。
そんなの、、本当の友達ではない。
仲間なら、相手がどう転んでもそばにいる。
ただのその場限りの付き合いなどいらん。
他人なんぞに慰められて病気が治ろうもんなら、とっくに健常者のなかにいるだろう。
あたしはいつも孤独でイイ。
孤高でイイ。
同じ群れのなかには本当に欲しいものはない。
他人に理解してほしいと思うこと自体、甘えだ。
変なプライドなんぞ生きるのにはいらん。
じぶんでじぶんを亀甲縛りにしてひとりSMをしているなら、ホントの変質者のほうがまだ行動力があり勇気のある人生だ。
社会やどこかの団体のルールに縛られたから心の病気になったのに、また、違うルールで縛られようなんて思うのならバカになればいいのに。
バカにもなれんのなら永遠にそのままだ。
昭和の時代、川崎駅からバスに乗せろと車椅子の障害者らは駅前のバスの真ん前の轢かれる位置に居座って。抗議した。
運転手は煙草を吸いながら注意していた。
例え、ノンステップになろうといまも同じ。
5回も6回も、、、バス停にいる車椅子のひとを見ぬふりで走り去る。
乗せたくても、、時間も余裕もねぇんだろ。🚌
大阪の商業ビルで、障害者優先と書いてあるエレベーターを5回見送った車椅子ユーザーが声をあげたが、乗っているバカヤローに反対に文句を言われてそのままドアが閉まった。
ソイツらの足は、エスカレーターにも乗れん足らしい。
じゃ、いらねぇだろ。
いらねぇだろ!!
じゃあ、あたしにその聴覚もくれ!
どうせ他人の言葉なんぞ聞かねぇだろ!
あたしが代わりに他人に優しくしてやるから、その耳をくれよ!!
てめぇはそのまま天までエレベーターで昇りやがれ。