彭徳懐は毛沢東と共に闘った長年の盟友でしたが
毛沢東の大躍進政策を批判したために批判を受け
文化大革命時に林彪らに失脚させられて悲惨な最後を遂げた人物。
林彪は文化大革命で毛沢東に次ぐNo2まで昇りつめたが
文化大革命終わりの頃クーデターを企てて失敗
ソ連に逃亡中航空機事故でなくなった人物。

彭徳懐と毛沢東は出身地が同郷でかなり親しく
中華人民共和国成立後も、毛沢東に対して「主席」という敬称を使わない
唯一の高級幹部で毛沢東もこれを許容する間柄であった。

二人の運命を変えた盧山会議(1959年7月から8月に開催された)
以来久しぶりに(彭徳懐はすでに失脚)
彭徳懐は毛沢東から電話をかけられ
毛沢東の家にかけつけた。
毛沢東は懐かしそうに彭徳懐の手をにぎりしめ
「君というやつは・・・普段は顔を見せないくせに、
手紙と来たら何万字も書くんだな」と冗談を言い、
二人はすっかりうちとけて午後3時まで話し合った。


というエピソードがあるほどの間柄ではあったが
盧山会議で失脚したあと彭徳懐は

1967年7月の批闘会で7度地面に叩きつけられ、
肋骨を2本折られ後遺症で下半身不随となった。
その後、江青の医療服従専案の監督下に置かれ、
監禁病室で全ての窓を新聞紙に覆われたまま
約8年間を過ごした。
1974年9月には直腸癌と診断される。
鎮痛剤の注射を拒否され、
下血と血便にまみれた状態のままの
ベッドとシーツに何日も放置される
など拷問に近いものであった。
死の直前に塞がれた窓を開けて最後に
空を一目見せてほしいと嘆願したが
これも拒否された。1974年11月29日死去


同じ郷里の親しい同志さえにも
権力を奪取するためには酷い仕打ちは平気である。
劉少奇に至ってはさらに悲惨だったことは窺えられる。
過酷な階級闘争を推し進めてきた中華人民共和国が
尖閣諸島に端発して日本との戦端ひらいた場合
生半可では終わらないだろう。
コトが起きれば共産主義の旗の下
チベット、ウイグルに対するように奪い尽くそうとするのでは・・・。