皆さん! 初めまして、三輪整骨院の上野と申します。
このブログでは、皆さんの役に立てるコンテンツを提供していきたいと思います。
このブログは、よく【常識外】のことを話します。
今回は改めてアメブロを書き始めていくということで、
まずはこの常識外の記事を書くに至った成り行きも含め、私自身の【子供の頃】の話をさせて頂きたいと思います。すべてを、正直に話していきます。
かなり長文になると思いますが、お付き合いいただけたら幸いです。
1988年8月5日
私は、長野県長野市でそこそこ有名な医院を営む家庭の次男坊として生まれました。
子供の頃から自分は医者になるもんだと当たり前に思っていました。
なぜなら、うちの家系が祖父から続く医者の家系であり、父も私と兄に「お前たちは医者になって、将来ウチを継ぐんだ」と口すっぱく言ってきたからです。
「上野家として恥ずかしい事をしてはいけない」
これは母の口癖で、僕はそれを守るために少しづつバカみたいな遊びは制限しなきゃいけないと思うようになりました。
学校では運動も勉強も普通。ドッヂボールは苦手。
あまりパッとするタイプの子供ではありませんでしたが、スイミングや剣道、公文式や塾と多くの
習い事に通わせてもらったので、赤点をとるタイプでもありませんでした。
中学生の頃はなんだか勉強できなきゃいけないこと、いい子でいなきゃいけないことが少しづつ窮屈に感じはじめ、第一志望の地元で一番の進学校は私服だったので、それに憧れ私服も着れるし医者にもなれる、順風満帆な人生だと妄想をふくらましていました。
しかし、人生で最初の事件が起きました。
僕は高校受験に落ちました。
塾や学校で無理と言われていたわけではありません。模擬試験でもそこそこの判定だったのにです。
人生が音もなく崩れ去り、目の前景色が本当に白黒に写り、
本当に底の見えない落とし穴に落ちていくような感覚になったのを覚えています。
今までいい子を演じてきたことも、そこそこデキる感じを演じてきたことも【ウソ】という烙印を押され、すべて失った気持ちでした。
今までお坊ちゃんとして接してきた周りの人もなんだか僕を見る目が変わっていきました。
そうして第二志望の高校に入って、僕はグレました。
何かが切れたように遊び狂い、しかし家ではなんとか医者を目指す振りを続ける。
そんなつらい日々が続き、案の定僕は医学部受験とは程遠い人間になりました。
それでも僕は自分の人生については深く考えず、ようやく「医者になんなきゃヤバい」と感じはじめた程度で、1年間浪人するのですが、この時はじめて親以外の大人から色々な考え方を教わり、医者以外の人生もあるんだということを感じはじめます。
これを考えるのがその時は楽しくて、「お笑い芸人になりたい」とか「脳を研究する人になりたい」とか色々考えました。時折、成功法則とか、自己啓発の本を読むのが色んな人生を感じれるようで、無意識に救われているような気持ちになっていました。
しかしまだ問題の根本には気づいていなかったのですね、浪人して予備校に通っているのは医学部に合格するため、という現実のギャップから抜け出せずにはいました。それに目をつむり、僕は以前よりは勉強が嫌いではなかったので、一生懸命勉強しました。
そして結果医学部には届きませんでした。
やっぱり僕は親に進められるがまま、京都の整骨院の大学へ進みました。
はじめて実家から離れた大学生活。
僕は正直整骨院というものになんの情熱も湧かなかったけど、ある出会いによってはじめて自分の意思で道を決める事がおきます。
3年生の時、ある一人の教授の授業で整体の技を見ました。
この世の常識を覆すような技でした。
たった足をひょいっと持っただけで、人の腰の痛みが消えてしまうのです。
学生として、机上の理論ばかり勉強していた僕にとってはものすごいものに見えて、僕はその教授の弟子になることを決めました。
国家試験が近づいていたにも関わらず、僕は毎日図書館にこもって試験内容とは関係ない解剖学の本をひたすら読みました。
それを300日ぐらいひたすら続けました。
なぜなら教授の言ってることを少しでも理解したかったから。
気がつくと国家試験の内容なんか小学生の勉強に思えるぐらい簡単に試験をパスし、僕は柔道整復師として自身をもって進む決意ができました。
不思議なもので、無意識に嫌っていた実家も、心の中で許せている自分がいました。
そして僕は父親の医院のもと整骨院をいきなり開業させてもらい、仕事をはじめました。
~続く。
次回三輪整骨院スタート編
ここまでお読みいただきありがとうございました。
このブログでは、皆さんの役に立てるコンテンツを提供していきたいと思います。
このブログは、よく【常識外】のことを話します。
今回は改めてアメブロを書き始めていくということで、
まずはこの常識外の記事を書くに至った成り行きも含め、私自身の【子供の頃】の話をさせて頂きたいと思います。すべてを、正直に話していきます。
かなり長文になると思いますが、お付き合いいただけたら幸いです。
1988年8月5日
私は、長野県長野市でそこそこ有名な医院を営む家庭の次男坊として生まれました。
子供の頃から自分は医者になるもんだと当たり前に思っていました。
なぜなら、うちの家系が祖父から続く医者の家系であり、父も私と兄に「お前たちは医者になって、将来ウチを継ぐんだ」と口すっぱく言ってきたからです。
「上野家として恥ずかしい事をしてはいけない」
これは母の口癖で、僕はそれを守るために少しづつバカみたいな遊びは制限しなきゃいけないと思うようになりました。
学校では運動も勉強も普通。ドッヂボールは苦手。
あまりパッとするタイプの子供ではありませんでしたが、スイミングや剣道、公文式や塾と多くの
習い事に通わせてもらったので、赤点をとるタイプでもありませんでした。
中学生の頃はなんだか勉強できなきゃいけないこと、いい子でいなきゃいけないことが少しづつ窮屈に感じはじめ、第一志望の地元で一番の進学校は私服だったので、それに憧れ私服も着れるし医者にもなれる、順風満帆な人生だと妄想をふくらましていました。
しかし、人生で最初の事件が起きました。
僕は高校受験に落ちました。
塾や学校で無理と言われていたわけではありません。模擬試験でもそこそこの判定だったのにです。
人生が音もなく崩れ去り、目の前景色が本当に白黒に写り、
本当に底の見えない落とし穴に落ちていくような感覚になったのを覚えています。
今までいい子を演じてきたことも、そこそこデキる感じを演じてきたことも【ウソ】という烙印を押され、すべて失った気持ちでした。
今までお坊ちゃんとして接してきた周りの人もなんだか僕を見る目が変わっていきました。
そうして第二志望の高校に入って、僕はグレました。
何かが切れたように遊び狂い、しかし家ではなんとか医者を目指す振りを続ける。
そんなつらい日々が続き、案の定僕は医学部受験とは程遠い人間になりました。
それでも僕は自分の人生については深く考えず、ようやく「医者になんなきゃヤバい」と感じはじめた程度で、1年間浪人するのですが、この時はじめて親以外の大人から色々な考え方を教わり、医者以外の人生もあるんだということを感じはじめます。
これを考えるのがその時は楽しくて、「お笑い芸人になりたい」とか「脳を研究する人になりたい」とか色々考えました。時折、成功法則とか、自己啓発の本を読むのが色んな人生を感じれるようで、無意識に救われているような気持ちになっていました。
しかしまだ問題の根本には気づいていなかったのですね、浪人して予備校に通っているのは医学部に合格するため、という現実のギャップから抜け出せずにはいました。それに目をつむり、僕は以前よりは勉強が嫌いではなかったので、一生懸命勉強しました。
そして結果医学部には届きませんでした。
やっぱり僕は親に進められるがまま、京都の整骨院の大学へ進みました。
はじめて実家から離れた大学生活。
僕は正直整骨院というものになんの情熱も湧かなかったけど、ある出会いによってはじめて自分の意思で道を決める事がおきます。
3年生の時、ある一人の教授の授業で整体の技を見ました。
この世の常識を覆すような技でした。
たった足をひょいっと持っただけで、人の腰の痛みが消えてしまうのです。
学生として、机上の理論ばかり勉強していた僕にとってはものすごいものに見えて、僕はその教授の弟子になることを決めました。
国家試験が近づいていたにも関わらず、僕は毎日図書館にこもって試験内容とは関係ない解剖学の本をひたすら読みました。
それを300日ぐらいひたすら続けました。
なぜなら教授の言ってることを少しでも理解したかったから。
気がつくと国家試験の内容なんか小学生の勉強に思えるぐらい簡単に試験をパスし、僕は柔道整復師として自身をもって進む決意ができました。
不思議なもので、無意識に嫌っていた実家も、心の中で許せている自分がいました。
そして僕は父親の医院のもと整骨院をいきなり開業させてもらい、仕事をはじめました。
~続く。
次回三輪整骨院スタート編
ここまでお読みいただきありがとうございました。