灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし -8ページ目

石川恒太郎『日本浪人史』(西田書店)

 

 

昭和6年に春秋社から上梓されたまま埋もれていた一編を、西田書店が作者の再刊序と横井清の解説をつけて復刊したもの。もちろん新字新かなである。

当時、宮崎県にて大阪毎日新聞に奉職していた石川は、地方での資料収集の難と時間不足に苦しみながらも三年間で本書を書きあげたという。

タイトルからすぐわかるように本書は「浪人」についての概説書だが、普通、われわれがイメージするそれとは、封建制下において主君からの俸禄にあぶれた失業者というところだろう。

もちろんそれはそのとおりで、本書の後半部分は江戸期の浪人の暮らしぶりに焦点が当てられる。

しかしもうひとつの「浪人」が存在する。庚午年籍(670年)あたりの頃から現れた法の外、制外のものとしての「浮浪」(「ウカレビト」と読む)である。

本書で一番の大切なところは、封建制が成立する以前、戸籍や法が成立することで現れた「浮浪」が、防人や盗賊であったり、荘園での雑役であったり、傀儡・非人といった賤民に化したという指摘である。

特に地方官や豪族が、盗賊と化した浮浪より荘園を防衛するために組織した浮浪のなかから武士が生まれたということは、武士が賤民と同根であることを意味する。

要するに、本書の史観にしたがえば、制外である「浮浪」の末裔こそが幕府をつくり、幕末の志士としてそれを壊し、明治新政府という近代日本の礎を築く。

いいかえれば「浮浪」の裔は日本の中枢であり、また日本の底辺であったということだ。

そういえば、「道々の輩」(職能民)を中核に据えた骨太の歴史観とエンターテイメントが幸福な邂逅を遂げた歴史、伝奇小説の最高峰、稀代の大傑作『影武者徳川家康』では、徳川家康の身代わりとなった男は賤民だったが、本書によれば別段、荒唐無稽でもないということになるだろう。

ちなみに隆慶一郎『影武者徳川家康』の元ネタとなった一編が明治期に上梓され早々に絶版となった『史疑 徳川家康事蹟』である。併せて読むのもおもしろいだろう。

ところで、本書の復刻は編集者の目利きによるものらしいが、この西田書店、戦前の社会科学系の名門出版社である刀江書院を引き継いでいるらしい。

刀江書院といえば、かの尾高豊作(渋沢栄一の孫、尾高邦雄朝雄の兄)が創業し、戦後にマルクス主義者の高山洋吉が復活させた出版社だが、こんなところで名前を見るとは思わなかった。

私事ではあるが、わたしは尾高邦雄の弟子の弟子の弟子にあたり、師からよくその金持ちぶりを聞かされたものだ。

そんな尾高の先祖である渋沢栄一は豪農から志士という「浪人」へ、そして幕臣、役人、実業家と歩を進めたわけだが、豊臣秀吉の身分統制令以降、階層移動が難しかったにも関わらず、乱世であるがゆえにその才覚をもって渋沢たり得たということだろう。

本書では、彼のように法の内側のものが制外と化す事例、たとえば逃亡農民(逃散)については触れられていないため、このあたりの法の内外をめぐる移動と賤民の関係等は、他の書籍で補う必要がある。

佐野洋『脳波の誘い』(講談社文庫)元版:1960年

 

佐野洋『脳波の誘い』(講談社)

 

雑誌記者の取材の中で脳波を送り他人を操れると豪語する老人。自らの原稿出版を賭け、記者の挑戦を受ける。「脳波で人間を自殺させてみろ」。半月後、記者の指定した人物が死亡する。それは記者の愛人の夫だった…

読者をぐぐっと物語に引き込む見事な謎が、法廷ミステリとして決着するという贅沢さ。

特に法廷シーンは作中の伏線を活かして辣腕弁護士の奇襲に結びつけるあたり、黎明期の法廷ミステリながら十分に楽しむことができる。

真犯人の意外性はともかくとして、謎の魅力と犯人へと至るプロセスが妙味の秀作といえよう。

しかし欠点もある。

まず動機の醸成がいくらなんでも不自然すぎること。真犯人の動機が平凡なのはいいのだが、それが犯行へと唐突に飛躍する奇妙さ。

読んでいる最中は犯人がわからないから瑕疵に気づかないのだが、読後、時系列を整理するとその行動に不自然さを感じるはずだ。

そういえば前半でフォーカスされた老人はいつの間にか事件の背景へと消えている。まさか、彼の「脳波」に犯人が動かされたとでもいうのだろうか…

元版:

(講談社 書下し長編推理小説シリーズ6)1960年

 

 

 

清水一行『捜査一課長』:甲山事件の冤罪被害者をもろに犯人扱いした戦後ミステリ史最大の汚点

清水一行『捜査一課長』(集英社文庫)

 

名作『動脈列島』(1975)にて推理作家協会賞を受賞した清水だが、乱作が過ぎ、ほかに一体どのような作品があるのか皆目見当がつかないというひとも多いのではないか。

 

そんな清水の裏の代表作というべきなのが、本書である。

 

1978年に集英社よりハードカバーで刊行されたこの本、タイトルだけ見れば何てことはない有象無象の一編と思われただろう。

 

ところが、本書は戦後最悪の冤罪事件として名高い甲山事件をモデルとし、しかも不当逮捕や自白強要等について国家賠償請求訴訟(国賠)を起こしていた冤罪被害者に該当する作中人物を思い切り犯人として描くことで、読むものの目を曇らせたであろう最悪の作品である。

 

まさか本書の影響ではないだろうが、被害者は本書が上梓されたのとほぼ同時に一審で無罪となった殺人罪で追起訴され、またしても長い戦いの日々を送ることになる。

 

では、甲山事件とはいかなるものであったか。その概略を説けば、そのまま本書を語ることになるので、少々説明しよう。

 

1974年、西宮市の知的障害者施設で発生した事件で、浄化槽内にて712歳の園児2名が溺死体となって発見されたことに端を発する。

 

浄化槽には重さ17kgの蓋がしてあったため、園児はそれ開けることができないと決めつけた捜査陣は、さらに外部からの侵入者の痕跡が発見できないことに勢いづき、内部関係者のなかでアリバイがなかった女性を犯人と独断して不当逮捕にいたるのである。

 

のちに彼女が検察から証拠不十分で釈放されることからもわかるように、動機も不明、具体的な証拠もないというきわめて杜撰な捜査であった。

 

本書はタイトルによくあらわれているが、警察側から事件を描いたもので、捜査プロセスは当然として、刑事や駐在たちの家庭や人物像を追求することで、捜査陣に奥行きを与えようと工夫を凝らしている。

 

逆に被疑者側の園関係の人間については、あくまで事件に関係がある部分のみが触れられ、彼らは犯罪を犯しえたもの、捜査を妨害するものといった以上の存在ではない。

 

解説の権田萬治は、87分署シリーズマルティン・ベックと比較し、「いちおう容疑者の自白を得て事件を解決したものの、法廷で有罪判決を得られるかどうか必ずしも確信が持てない。という微妙なところでこの小説は終っているが、著者は、この間の桐原重治捜査一課長の不安や焦り、苦悩を乾いた目で見詰めている」として、「捜査官の肖像を浮き彫りにしたところにこの作品の新鮮な魅力の一つがある」「日本の数少ない警察小説の収穫」と持ち上げる。

 

そうじゃないだろう。

 

法廷で有罪判決を得られなかったのは、強要した自白と乏しい物証で公判を維持しようとしたが故であり、本書でもそれは瞭然なのだ。

 

そこに突っ込んで容疑者は無罪ではないかと言及するならまだわかるが、見込み捜査で白星を挙げられるか悩む「捜査一課長」を描いて「警察小説の収穫」とはへそが茶を沸かす。

 

実は本書は調書等の資料をかなり読み込んで書かれており、ここで描かれた捜査過程が杜撰だなあと感じさせるのは、実際の捜査そのものが杜撰だからなのである。その点で、マルティン・ベックに見劣りし、人物の魅力で87分署の足元にも及ばない、実に微妙な警察小説なのだ。

 

ところが、それでいて最後まで一気に読ませるのは、作者のこなれた筆さばきと事件そのものへの興味によるものだろう。その点で仮にこれが完全なフィクションであれば、舞台の特殊性、犯罪状況、真犯人への関心等から、捜査プロセスが甘いとしても評価に値した。

 

しかし、筆は強者におもねるためにあってはならない。弱者を叩くのはもってのほかである。その点で、本書は日本ミステリ史の最暗黒である。

 

ただし、本書で甲山事件なる戦後最悪の冤罪事件を知り、その実像について資料をあたっていくきっかけとなるならば、存在価値もあったといえるだろう。

 

ちなみに本書は冤罪被害者からの訴えにより二度と日の目を見ることはない。

 

★☆☆☆☆