清水一行『捜査一課長』:甲山事件の冤罪被害者をもろに犯人扱いした戦後ミステリ史最大の汚点 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

清水一行『捜査一課長』:甲山事件の冤罪被害者をもろに犯人扱いした戦後ミステリ史最大の汚点

清水一行『捜査一課長』(集英社文庫)

 

名作『動脈列島』(1975)にて推理作家協会賞を受賞した清水だが、乱作が過ぎ、ほかに一体どのような作品があるのか皆目見当がつかないというひとも多いのではないか。

 

そんな清水の裏の代表作というべきなのが、本書である。

 

1978年に集英社よりハードカバーで刊行されたこの本、タイトルだけ見れば何てことはない有象無象の一編と思われただろう。

 

ところが、本書は戦後最悪の冤罪事件として名高い甲山事件をモデルとし、しかも不当逮捕や自白強要等について国家賠償請求訴訟(国賠)を起こしていた冤罪被害者に該当する作中人物を思い切り犯人として描くことで、読むものの目を曇らせたであろう最悪の作品である。

 

まさか本書の影響ではないだろうが、被害者は本書が上梓されたのとほぼ同時に一審で無罪となった殺人罪で追起訴され、またしても長い戦いの日々を送ることになる。

 

では、甲山事件とはいかなるものであったか。その概略を説けば、そのまま本書を語ることになるので、少々説明しよう。

 

1974年、西宮市の知的障害者施設で発生した事件で、浄化槽内にて712歳の園児2名が溺死体となって発見されたことに端を発する。

 

浄化槽には重さ17kgの蓋がしてあったため、園児はそれ開けることができないと決めつけた捜査陣は、さらに外部からの侵入者の痕跡が発見できないことに勢いづき、内部関係者のなかでアリバイがなかった女性を犯人と独断して不当逮捕にいたるのである。

 

のちに彼女が検察から証拠不十分で釈放されることからもわかるように、動機も不明、具体的な証拠もないというきわめて杜撰な捜査であった。

 

本書はタイトルによくあらわれているが、警察側から事件を描いたもので、捜査プロセスは当然として、刑事や駐在たちの家庭や人物像を追求することで、捜査陣に奥行きを与えようと工夫を凝らしている。

 

逆に被疑者側の園関係の人間については、あくまで事件に関係がある部分のみが触れられ、彼らは犯罪を犯しえたもの、捜査を妨害するものといった以上の存在ではない。

 

解説の権田萬治は、87分署シリーズマルティン・ベックと比較し、「いちおう容疑者の自白を得て事件を解決したものの、法廷で有罪判決を得られるかどうか必ずしも確信が持てない。という微妙なところでこの小説は終っているが、著者は、この間の桐原重治捜査一課長の不安や焦り、苦悩を乾いた目で見詰めている」として、「捜査官の肖像を浮き彫りにしたところにこの作品の新鮮な魅力の一つがある」「日本の数少ない警察小説の収穫」と持ち上げる。

 

そうじゃないだろう。

 

法廷で有罪判決を得られなかったのは、強要した自白と乏しい物証で公判を維持しようとしたが故であり、本書でもそれは瞭然なのだ。

 

そこに突っ込んで容疑者は無罪ではないかと言及するならまだわかるが、見込み捜査で白星を挙げられるか悩む「捜査一課長」を描いて「警察小説の収穫」とはへそが茶を沸かす。

 

実は本書は調書等の資料をかなり読み込んで書かれており、ここで描かれた捜査過程が杜撰だなあと感じさせるのは、実際の捜査そのものが杜撰だからなのである。その点で、マルティン・ベックに見劣りし、人物の魅力で87分署の足元にも及ばない、実に微妙な警察小説なのだ。

 

ところが、それでいて最後まで一気に読ませるのは、作者のこなれた筆さばきと事件そのものへの興味によるものだろう。その点で仮にこれが完全なフィクションであれば、舞台の特殊性、犯罪状況、真犯人への関心等から、捜査プロセスが甘いとしても評価に値した。

 

しかし、筆は強者におもねるためにあってはならない。弱者を叩くのはもってのほかである。その点で、本書は日本ミステリ史の最暗黒である。

 

ただし、本書で甲山事件なる戦後最悪の冤罪事件を知り、その実像について資料をあたっていくきっかけとなるならば、存在価値もあったといえるだろう。

 

ちなみに本書は冤罪被害者からの訴えにより二度と日の目を見ることはない。

 

★☆☆☆☆