2001年3月に私達は、国分寺の社宅から中央区晴海の都市公団の賃貸マンション「晴海アイランドトリトンスクエアガーデンプラザ」に転居しました。現在もそうですが、晴海は公共交通機関が無いのが欠点で、最寄駅が勝どき駅か月島駅になるのですが、どちらも徒歩10分程度、かかり毎日の通勤となると、やはりあまり便利とは言い難い所が有ります。
ですが、私の場合は、偶然にも当時、転勤により勤務地が御茶ノ水から日本橋に変更になったため、マンションの目の前のバス停から東京駅八重洲口行きのバスが有り、それを使えば20分で東京駅に着き、オフィスは東京駅の八重洲北口のまん前でしたので、door to door でも35分程度で通え、この時人生で初めて満員電車地獄から解放され、都心に住む快適さを満喫していました。
そうこうして晴海のマンションで暮らしていたある時、多分、2002年だったと思いますが、ポストに一連の郵便物の中に投げ込みの広告が紛れ込んでいました。チラッと見えたのはどうも新築分譲マンションの営業広告でした。普通ならそのままゴミ箱行きにする所ですが、一応、部屋まで持ち帰りました。
何のきなしにその封筒を開けてみると、どうも隣町の豊洲に今度、分譲マンションが建つみたいで、そのモデルルームの案内でした。ある土日の休日に暇でしたので、ふと先日の豊洲のマンションショールームの案内を思い出し、「冷やかし」でショールーム見学でも行ってみようかと思いつきました。
豊洲はバス停でも3つ先でしたので、チャリンコで散歩がてらに近隣散歩するには、丁度良い距離感でも有り、行ってみることにしました。チャリンコで10分位でしょうか。
当時、お台場開発が完了し、一方、晴海エリアの開発も完了して、その間を繋ぐ、豊洲エリアの再開発プロジェクトが2002年に動き出していたのです。豊洲は、東京で一番、最後の埋立地であり、昔は三菱重工を筆頭として諸々の工場が操業していた工業地帯でした。しかし、それも公害防止条例の一連の流れで、工場は東京の郊外に移転されられましたので、豊洲にはその工場の跡地だけが散在している状況でした。例えば、三菱重工は工場跡地をオフィスとして準用していたり、ある工場はそのまま放置していたりと言うような状況でした。
当時、隣町に豊洲という街が有るのは知ってはいましたが、ショールームの見学に豊洲までチャリンコで行ったのが、初めてでした。現在は、ゆりかもめ駅が有り、豊洲駅の交差点には高層マンションが乱立していますが、当時の豊洲交差点は、今でも鮮明に映像の記憶として覚えていますが、薄暗い靄がかかったような交差点でした。いかにも「準工業地域」という感じでした。当時は、既に工業生産はしていないのですが、それでも粉塵が舞っていて視界が悪いようにも思える程、なぜか薄暗い雰囲気を醸し出していました。
豊洲と言う街は、江東区の端っこの街で、中央区の端っこの街の「晴海」と隣接している街です。当時は、「豊洲」と言っても都民の大半は名前さえも知らなかったと記憶しています。しかし、よくよく見てみると、有楽町線で銀座1丁目駅まで7分、有楽町駅まで9分で行けるという恐ろしく交通の便が良いロケーションでした。
最初は「冷やかし」で行ったのですが、都心アクセスの良さに加え、新築分譲価格は非常に安かったのも魅力でした。結論から先に言いますと、結局、この物件を最終的には購入する事になる訳ですが、80平方メートルで豊洲運河沿いの東向きの物件で4080万円程度でした。これに23畳のリビングダイング、ビューバス、バスオーディオ、玄関の全身姿見などのオプションを加えても4180万円でした。
これをそれまで住んでいた晴海の賃貸マンションと比較しても、広さも66→80平方メートルになり、晴海の家賃は、18万円+αなのに対して、豊洲物件の住宅ローン(10年固定、2.199%)は、12万+αで、圧倒的に安い訳です。
これは、一重に晴海は一応、「中央区」というブランド区で有り、一方、豊洲は、当時、東京北東部のマイナーなエリアの1区で有ったため、当然と言えば当然なのでしょうが、当時としては、「名よりも実を取る」選択をした感覚だったんだと思います。
しかし、私が以前、住んでいた国分寺駅前の新築マンションの分譲価格が投当時(2000年頃)、4500万円だった事を考えると、一方は東京駅まで40分、一方は12分で、どう考えても通勤と生活利便性を考えると、豊洲は大幅に割安な訳です。
このいびつな価格体系の原因を探る事が、本エッセーの趣旨、目的にダイレクトに繋がっていきます。当時の不動産業者の豊洲物件に対して価格設定を検討する際、きっと、まず江東区の過去の分譲価格実績を見たでしょう。すると、これまでの江東区で分譲実績が有りそうなエリアとして思い浮かぶのは、南砂、東陽町、大島、住吉などでしょうか。どれも必ずしも住居エリアとしては、人気が有るエリアでは無いので、市場価格も推し知るべしでしょう。この辺の価格帯がどうしても念頭に有るため、これを大幅に超える価格は設定出来なかったのでしょう。
とは言え、当時の豊洲の4000万円の分譲価格は、当時の東京エリアの価格からすると、激安という程では無く、多分、一般サラリーマンが購入可能な平均価格帯辺りで有ったと思います。ひょっとして大化けするかも知れないものの、、やはり前例や実績が無く、かつ一般的にはあまり人気の無い江東区物件なので、この程度に値付けしか出来なかったのだと思います。
江東区の「海のものとも山のものとも」わからない物件よりも、閑静な住宅街としての実績も有り、複数の大学が近くに有り、若者も多く、活気が有り、かつ駅ビルを改築したばかりの国分寺駅のまん前に建つ高層マンションが、豊洲の物件よりも高く、4500万円前後で販売されていたというのは、当時としては、合理的な価格設定だったと思っています。
ちなみに、2002年の頃に、都心部では無いのですが、豊洲とまったく同時に当時、こっそり分譲されていたエリアが有ります。それは、今は、豊洲同様、高層タワーマンションがこの20年で一気に乱立して一大タウンに成長した武蔵小杉エリアです。なぜ、鮮明に覚えているかというと、会社の同僚で、当時、公私共に仲の良かった1年上の先輩が、同時期に武蔵小山の物件を購入したからです。分譲価格は、ほぼ同じでした。
この武蔵小杉は、私が当時、通っていた大学のすぐ近くの駅だったので、友達のアパートなども有り、当時(1980年代前半)の武蔵小杉はよく知っていました。豊洲と同じで、駅前には何も無く、薄暗い雰囲気の駅前でした。当時の私の印象では、隣駅の元住吉駅と武蔵小杉駅の違いがよくわからない位、地味で特徴の無い、当時は各駅しか通らない、所謂、「通過する駅」でした。つまり、江東区と同様に住宅地としては、当時、あまり魅力的なエリアでは無かったのです。
この武蔵小杉も豊洲と同様、再開発エリアであり、不二サッシやNEC(日本電気)の大規模工場がありました。それがバブル崩壊後次々に工場は移転し広大な更地が残ったそうです。こちらは東京都ではなく、神奈川県なのでバブル崩壊の頃までこの地域で工場の操業が可能だったんでしょうね。その余った土地を活用してマンションを建築したのも豊洲とまったく同じです。
今や、豊洲の新築分譲マンションだと8000万円の大台に乗っています。2002年時点の分譲価格の倍です。一方、サラリーマンの年収は過去20年は、下がりこそすれ上がってはいないのにも関わらず、昨今、8000万円台のマンションが瞬間に完売しています。
だとしたら、2002年時点でも実はその価格でも販売は可能だったのでは無いでしょうか?確かにこの20年で住宅ローン金利も例えば10年固定金利は、大雑把に言えば2%→1%前後と下がっているので、当時よりも現在の方がより借り易いとい側面は有るとは思いますが、所詮、1%程度の差なのでその影響も限定的かなと思います。いずれにしましても、当時、そこまでを見通して、この価格(当時の倍の価格)を付ける事は、まず不可能だったでしょう。
それが出来ないので、最初は近隣の分譲実績並みの価格でまずは様子を見て、売れると思ったら、徐々に価格を吊り上げていく訳です。豊洲の物件価格の過去推移を見れば、それが象徴的に理解出来ます。
私自身も2003年に豊洲のマンションを購入し、実際に建築が完了した入居開始したのが、2005年でした。そこから豊洲の分譲価格の推移を継続的に見守ってきたので言えるのですが、確かに過去、何度も「もう天井だ」「もう下がるので、早く売った方が良い」「東京オリンピックが終わったら、東京の地価は暴落するから早く売った方が良い」等々、と言われ続けてきました。
確かに途中、伸び悩んで横ばいになった時期も何度か有りましたが、結局は現時点までは継続的に資産評価は上昇し続けており、最近(2019年)は、更にもう一段、ブーストがかかっているような気配さえしています。
こういう経緯で、過去20年間、都心エリアにバブルで潰れたビジネス施設(ビル、工場等)の跡地に高層タワーマンションが建つようになり、その分譲価格もジワジワ上がってきたのが、現在の東京都の継続的な土地高騰の主たる原因なのだと思っています。
次回は、総括として、この一連の現象をどう理解すべきなかのかという事をお話してみたいと思います。長文にお付き合いいただきまして、ありがとうございます。