2000年頃は、驚くことに中央区の新築物件の分譲価格と国分寺、立川、八王子等の武蔵野台地辺りの物件価格がほぼ同等の価格でした。なぜ、こんな事が起こりえるのでしょうか?
これは、当時、私自身が自分の目で確認した厳然たる事実なのですが、なぜ、そうなのかを当時はもとより、現在においても端的に説明してくれる人は、まあ、いませんでした。なので、これから説明する事は、あくまでも私の解釈になりますが、そんなにずれた「見立て」でも無いのではと思っていますので、それをこれから順を追って説明させていただきますので、しばしお付き合い下さい。
結論から先に申しますと、当時は、都心部にファミリー向けの分譲マンション自体がマーケットを形成するほど数が無かったので、分譲者はもとより、不動産業者も一体、いくらの価格を付けていいかわからず、最初は様子見も含めて、まずは都心近郊部である周辺部エリアの価格並みの数字を設定したものと思われます。だから、似たような価格だった訳です。つまり、実は一時的な「様子見価格」「お試し価格」のつもりだったんだと推測します。
では、都心部には、なぜファミリー向けの分譲マンション無かったのでしょうか?これには、少し、補足説明が必要なのですが、そもそも都心部は、当時、東京の都市デザイン行政戦略がしっかり構築されていて、非常にクリアに地域別に機能分担が出来ていました。
具体的には、23区内の、もっと正確に言えば「皇居を中心とした都心部」エリアは主に行政、ビジネスエリアと想定されていたため、主に官庁街、ビジネス行政街に充てられました。居住エリアも同地域には有るには有りましたが、先祖代々の地権者やあるいは政治家、事業家などの富裕層(超お金持ち)などの一軒家が千代田区、港区などの山の手地区(昔の本郷区、小石川区、牛込区、赤坂区、麻布区辺り)にほんの一握りの人々が住んでいるのみで、それはあくまでも例外でした。
また、地方から上京してきた学生用の下宿アパートが本郷近辺など、大学の近くに点在する位で、ファミリー層向けの広さを持った、現在の高層マンションなどの類の居住インフラは、都心部には2000年以前には、あまり見かけませんでした。
余談ですが、都心部の行政エリア内においても、官庁街は霞ヶ関エリア、行政府は永田町、大使館及び外交官の居住エリアは麻布エリアなどと、機能別にエリア分けがされていました。
都心部のビジネスエリアでは、証券会社は兜町、卸業は、馬喰横山、東神田エリアとエリア分担が出来ていました。また、昭和47年までは、亀戸などには、日立製作所などの工場なども都内で煙をモクモク立てながら、普通に操業していていました。これも公害問題が原因で法律により郊外エリアに移転していきました。
つまり、都心エリアは、ビジネスセクターでは有るものの、第一次、第二次産業は郊外エリアで、都心エリアは第三次産業を中心に集積させていました。特に日本全国の大企業の本社機能も、都心エリアの中でも一等地の東京駅のまん前の八重洲口、大手町エリアを中心に集めました。
このようにそもそも2000年頃までの都心部は、一部の例外を除いて居住エリアとして想定されていなかったために、有意な市場価格を形成するに足るだけのマスボリュームに欠けていたために、現在、当然のように存在している都心部のマンションの市場価格というもの自体が、存在していなかったのだと思われます。
もちろん、都心部のマンション物件は、郊外よりも通勤時間も短く、色々なお店も集積していて生活利便性が高いことは、当時でもわかっていたはずですが、果たして、その利便性をその分譲価格にどの程度、転嫁すれば良いのかというのが、前例がまったく無いために分譲者も不動産業者も、きっと決めあぐねていたのだと思います。
それでは、なぜ、2000年頃に従来無かったファミリー層向けのマンションが都心部に乱立するようになってきたのでしょう?次回は、それについて話してみたいと思います。