私といえば、もう毎日、池田晶子さんの著書をこれでもかというくらい読み漁り…

そしてそんな日々の中、時として、ひどい喪失感に襲われることがある。

2007年に池田晶子さんは癌のため死去した。
46歳という若さで。

池田晶子さんの紡ぐ真実の言葉を、
私はもっともっと聞きたかった。
リアルタイムで、聞きたかった。
この世の中を、今の現代世界や日本の状況を、あなたはどう思いますか。
他の誰の言葉も響かない。
この騒がしいばかりの世界で、私はひどく孤独なのだ。
独りぼっちで、あなたが残してくれた著書を読んでいる。
あなたの言葉がまた聞きたくてたまらない。
同じ世界を生きる人と、語り合いたくてたまらない。

そんなに早く逝くなんて。

けれどもこのことが、池田晶子さんの早すぎる死が、なんだか腑に落ちるというか、ひどく納得してしまうところがあるのだ。

あの人は普通の人の、何倍も何倍も濃く生きていた。
著書を読めば分かる。

死や生のことについて、幼い頃からずっと考え続けていた人だった。だから、もう全てを了解していた。存在について、人生について。とっくに全てを理解していたように思えた。あの若さで、恐らく普通の人の寿命分は軽く生ききっていたのではないだろうか。
そして、加速度的に悪くなるこの世の中を嘆き、憂いていた。

物質とか肉体とか、そういう形あるものを窮屈に感じていた池田さん。むしろ彼女の魂は死によって覚醒したのではないか。この世という現象そのもののような世界から解放され、無になって来たところへ還り、「生存」から「存在」そのものを包括する全てとなって、物質そのものである身体という入れ物から解き放たれて… 。


死  は無い。死体はあっても、死 はない。

だから怖がることなどできない。


繰り返しそう言っていた。

論理的にはその通りであるにせよ、
やはり今際の際には
「身体」が機能しなくなるという
そういった恐怖はあったのだろうか。
それとも、永遠の眠りにつける幸福への喜びの方が勝っていたのだろうか。

私は最近思う。
池田晶子さんの本を読み続けて、
考える癖がついてからずっと考えていて、思うことがある。

生きる
ことのほうがよほど恐ろしく大変で辛く苦しい修行のようなもののような気がする。

だから死にたい、というわけではない。
そこまで今の自分や人生に絶望しているわけではないし、死が何なのか分からないのだから逃げ場所になるとも考えていない。死を、そういう捉え方で捉えていない。構えとしては、池田さんと全く同じ。


ただ、私は多くの人がそこまで生に執着するほど生きることの方が死ぬよりも絶対に素晴らしいとは思えない。どころか、この年まで生きていて思うのは、生きるとは残酷なことである、ということだ。重ねて言うが、だから死にたいということではない。そもそも、どちらも分かってないのに、どっちの方がいいなんて、実際分かるわけがない。死んだこともないくせに、死の方が怖いなんてどうして分かりますか。生きたい、死にたいなんてこと、言うだけやっぱり無駄なのだ、どうしてもそういう感じがする。やたら皆、死を怖がったり嫌ったりするけれど、分からないものを怖がれるだろうか?

だけど人間は弱いから、
分からないから闇雲に怖がるか、
分からないから救いの世界としてすがるのか。
心理としてはそうなっちゃうんだろう。

どっちみちそんなもの、ちっぽけで賢しらな人間の考えに過ぎないけれども…。

分からないなら分からないなりでいいじゃない。分かってしまったら、この世から神秘が消えてしまう。空が青いことに理由なんて要らないし、ゴーストや宇宙人にしろ、分からないから惹かれる訳だし。

だから私は、とりあえず考える。
考えてみて、思うこと。やっぱり大変なことですよ。
生きるって。ま、死は分からないからとりあえず置いとくとして。自分の寿命がいつ来るかなんてことが分からない中で、死ぬまで生きるなんてそんなこと。

別に特段ハードモードな人生を送っているわけではない私でもそう感じる。

言うなれば私の心の境地としては、中庸、中間にいる感じ。生の側に大きく傾いてそちらに執着しているわけでも、かといって死にたくて、そちらに憧れているわけでもない。そのへんは、ちゃんと目が覚めている。盲信とかは無いのである。

生も死も、うん、あるよね。
それは分かる。あることは。
でもどちらも、よく分かっていない。
その事だけは、よく分かる。

「生は、分かるやろ。
生きてるんやから」

もしそう聞かれたらこう答えるだろう。

「死が分からないのに
生が分かるとは言えない。
生活してるっていうこと、その実感なら分かるけど。」

分からないから、生きられるとも言えるのかもしれない。生死は自分の意思を超越しているものだ。望まなくても生まれてしまった。そして望まなくても死ななくてはならない。恐らく人は、そこを何とか操作しよう、なんとか分かろうと無理矢理あれこれしようとするから苦しむことになるのだろう。生まれて生きて死ぬことに、そこに人の意思はどうやったって入り込めない。矛盾を受け入れ、生きるしかない。諦めという絶望でもなく、悟りというほどの達観でもない。たったのひと言、それが事実だから。

中途半端な慰めや
半分妄想の域の励ましで、
一時的な現実逃避、一瞬の渇きは癒されたとしても
結局また、繰り返し悩んだり苦しんだりすることになるだろう。みんな誠に、悩むのが好きなのだなぁ、私も含め。それだって確かに人生の暇潰しにはなるから別に悪くはないんだろうけど、でも…

じたばたしても、
変えられないものは変えられない。
それを承知で、生きるしかない。


運命とはその意味で、
大変的を得た言葉だな。

生まれ落ちた環境や時代は自分では選べない。
だがいかにして生きるかは自分で決めることができる。
しかしいつ死ぬかは分からない。

これだけで十分、
ああ生きるとは、生まれてくるとはなんて不条理だと感じる。

どんな苦しみや喜びや悲しみや嬉しいことがあったとしても

終わりの時が必ずやってくるのだ

全ての終わり。
私の終わり。

あえて、死とは言わない。
死は、ないのだから。

肉体としての私が消滅するときが。

だが。 

終わっていいのだ

だって、ずっと生きるなんて、考えるだけでも疲れてくるから。いつか、永遠の眠りにつける。
これは幸福なことではないか?