もう手遅れだと感じる。人は賢くなりたいと言いながら、目先の欲を追いすぎて、取り返しのつかないところまで来てしまっていると感じる。シンプルな時代が、きっと良かった。携帯が無い頃。便利過ぎてなかった頃。人と人の生の絆や温もりや繋がりを大切にしていた頃。
便利を追い求め過ぎたために失ったもののいかに多いことか。SNSにまつわるえげつないトラブルを見聞きする度に私はげんなりする。こうなってまで、そうなりたかったのか。そう思う。人間はどこまでも果てしなく愚か。良くなりたいのか悪くなりたいのかさっぱりなのである。インターネットの普及は確かに人類にとって革命的であっただろう。しかしそれによって人が賢くなったかというと、それはやはり別問題である。ある事実を人がどう考え、捉え、使っていくかは、全然違うところにある。

何にせよ私はいつもこんな風。こんな風にしか生きられない。だから時折ふと、うんと私は疲弊してしまう。
山にこもって、星でも眺めながら静かに生きていたいのはそのためだ。私にはこの現代は騒々しすぎる。原点にかえりたい。でも、不可能だけど。
生活が大事だろう。そんな浮世離れしたことを考えてどうするんだ?そういった声が聞こえてきそうだな。

でも、森羅万象、あらゆるものごとの本質に関わる根源的な問いをそっちのけにし、現実の生活ばかりを必死に追いかけて、その果てに道に迷ったとき、おろおろするのが現実の生活のことばかりにかまけて肝心なことは何も考えていない人間というものではないのか。その時戸惑い、思い悩み、はじめて思考する、思索の深淵にまで降りて、やっと考えるということをするようになる。生活が大事だと人は言う。しかしその、生活のためのそれら(生や死や、生きること、命についてや善悪について等)がつまり何であるか、どういうことかを考えるのが、やはり先だと思うのだが。そこから考えずして、どうやって生活を先に持ってこれるというのだろうか。だから人は、悩むのではなかろうか。考える順序が、逆なのである。ここを正しく認識すると、人は悩むのではなく考えるようになると思う。私はいつも、思索の深淵に佇んで考えている。感じている。その場所は本当に孤独である。それが人より劣っているでも優れているでもそういうことでは全然なくて、そういう風にしか生きられない私自身の業みたいなもんであると思っている。

例えば私は、日常の中で芽生える感情ひとつにも、いちいち立ち止まりそれを考え味わうし、極端な話、私は毎日毎分のように、生きていることの謎を思っている。たぶん、ひとつひとつの些細な出来事の捉え方がかなり深い。例えば今日は、時間の概念について思いを馳せていた。生が今ここにあり、死が最後にあるわけではない。生も死も今この瞬間同時に存在し、そしてそれに気が付いたとき突然時間は前方に流れるのを止める。性差について考えるとき、どうにも滑稽な気分になる。長くなるから、ここではあえて触れない。しかしこの事も、私にとっての大きな命題のひとつである。あなた、生きているとはどういうことだと思うか。こんな私のふとした問いをふとした日常のなかで投げ掛けて、日常会話の如くふと返してくれる人がいればいたらいい。同じことを感じ、同じように考えている人。私を変わった奴だと、特別視しない人。

でもいない。だから私は口をつぐむ。絶句する。そうするしかないからである。

でも私は対話できる人を見つけている。本の中に。池田晶子さんを始め、哲学者の著書のなかに私の問いに対する答えを探す。そこに見つける。だからうんと孤独に心が疲れたとき、私は本を開く。するとそこに、私の居場所がちゃんと開かれていると確信して心の底からホッとする。その安堵は、時折泣けてくるほどだ。違和感が無くなる瞬間なのである。私は生きていていいんだ、と感じることができる。