今日、6月3日は、娘の6年目の命日。

所謂7回忌の年です。

 

仏教や神道での人が亡くなった後の

弔いの意味について

私は、娘が亡くなるまで

深く考えたことがありませんでした。

 

 

49日、1周忌、2年目の3回忌、

そして、6年目の7回忌、

 

 

49日、1周忌、3回忌までは、

日々があわただしく過ぎて行き

自分の気持ちがついていってないと感じていました。

 

そして、今年6年目を迎えてみて

自分のこころの変化を感じています。

 

 

「時間薬」という言葉があるように

時間が悲しみや辛さにとって

一番効果があると言われます。

 

それはそうなのですが、

私は、

 

「娘さんの死を

「どうやって、乗り越えられたのですか?」

「どうやって、忘れられたのですか?」

 

と問われると

 

「乗り越えてもいないし、忘れてもいない」

 

と言葉にはしませんが、

こころの中で反論していました。

 

6年経っても乗り越えられないし、

忘れられない。

 

悲しみは

 

「今も、そこにある」

 

のです。

 

では何が、変わったのか?

 

亡くなった当初は、

悲しみに押しつぶされそうで

あらがうことに必死だったように思います。

 

以前のブログに

「重たい石が上に乗っている感じ」

と書きました。

 

その石が年々小さくなり、その重さが

軽くなっていったといえばいいでしょうか・・・。

 

ただ、その石は、決して消えることはなく

形を変えて

いつでも、いつまでも

 

「そこにある」

 

のだと感じています。

 

そして、これからもずっと

共に「そこにある」ことが

当たり前になるのだと。

 

 

昨日、たまたま、

家で観た岩井俊二監督の映画

「ラストレター」

にこんな台詞がありこころ惹かれました。

 

「亡くなった人のことを

思い続けている人がいる限り

亡くなった人の人生は続いている」

 

ああ、そうだな・・。

 

私が恐れていたのは、

「娘がこの世に確かに生きていた」

ことが忘れ去られてしまうことだったのだと。

 

私が、そして娘の友人たちが

命日だけでも

娘のことを思い出し、懐かしんでくれる限り

 

娘の人生は続いている、

終わっていない。

 

と思えたのです。

 

娘の友人たちが

命日に毎年贈ってくれるお花が

今年も届きました。