子どもの思春期が終わる頃

私が思っていたこと

 

「子育ては、ギャンブルみたいだ!」

 

何故、そう思ったか?

 

娘や息子の中高生の思春期が過ぎて、

ようやく

「やれやれ、子育ても終わりに近づいてきた・・ほっ」

 

と思って、

子どもの友人たちを見回してみたら

状況が大きく分かれていたのだ。

 

まだ、葛藤の最中にいる子

引きこもったり、ぐれたりした子

親との関係が壊れてしまった子

大きく道を外れないでいる子

 

などなど・・。

 

幼少期には、思いもしなかった子どもたちの

変化があったのだった。

 

 

幼少期の

「可愛い、可愛い・・」

の関わりでは、難しい思春期。

 

親のあり方、関わり方が

思春期やそれ以降に大きく影響するのだと

痛感したのだった。

 

 

私の場合、

息子が高3で高校を退学するという出来事があり、

決して一般的な意味では「うまくいった」とは言えない。

 

けれど、大きく道を外れず、

今は、社会人として

生活しているのをみるとその分岐点は

何だったのだろう?と思う。

 

「一言が決めた」

のだと息子に後ほど聞いて知った。

 

 

息子「もう高校に行きたくないんだ・・」

私「そっか、行きたくないんじゃ、仕方ないね。辞めるか」

 

この私が即座にいった「辞めるか」で

息子は、

「この人は自分の気持ちをわかってくれる。味方だ」

 

と思ったのだという。

 

もし、他の言葉

 

「高3の今になって何言ってるの!」

「進学したいなら、高校卒業しなきゃ」

「退学なんて世間体が悪い・・」

「高校くらい卒業して」

「辞めてどうするの?」

 

を言っていたとしたら

 

「この人は俺の気持ちをわかってくれない。敵だ」

と思い、

引きこもるかぐれていたかもしれないと

社会人になってから、本人がそう言ったのだ。

 

 

このとっさのたった一言の違いが

その後の大きな分かれ道になったのを知り

「怖い!ギャンブルみたい!」

と感じたのだった。

 

私の経験が全てとは思わないけれど

こどもの思春期の対応で気をつける

とっさの一言で間違わない為に

これが大事なポイントだと思うものがある。

 

 

「ちゃんと子どもを見て、子どもを信じる」

「世間の物差しではなく、自分の物差しで子どもを見る」

 

 

言い古された言葉だけれど、

このことにつきるのではないだろうか・・。

 

思春期の子どもは、恐ろしく敏感だ。

 

大人が発した言葉が、

真に心のそこから発せられた言葉か

ありきたりの表面的な言葉か

 

見抜いている。

 

そして、

 

「この人は味方か、敵か」

 

判断しているのだ。

一時しのぎのごまかしはきかない。

 

ある意味、

その人の生き方・人生を

問われているのだと言っても

大げさではない。

 

それは、子どもが思春期になってからだけでなく

幼少期からの関わりも問われているのだとしたら

 

 

「この子の為に・・・」

といって本当は

「世間体の為、自分のため・・」

ではないのか?

 

親の生き方・考え方が子育ての結果として

如実にでてくるのが、

子どもの思春期以降だとしたら・・。

 

 

子育ては、一瞬たりとも気の抜けない

結果の見えないギャンブルみたいなものなのかもしれない。

と昔の私は思ったのだ。

 

 

子育てをギャンブルにしないためには

 

「これは、子どもの為?自分の為ではない?

本当に子どもを信じられている?」

「世間一般に惑わされてない?」

 

と日々自分に問うことが必要なのかもしれないと思う。