5/13読了

 

「今年(2018年)読んだ本の中で、私のベスト3に入る1冊!」――宮部みゆき(単行本帯コメントより)話題騒然のメフィスト賞受賞作。読者から届いた熱い、熱い声。続々重版出来。

 

子供を殺す前に。親に殺される前に。すべての「向いてない人」に捧ぐ、禁断のオゾミス、または落涙の家族サスペンス!

 

一夜のうちに人間を異形の姿へと変貌させる奇病「異形性変異症候群」。

この世にも奇妙な病が蔓延する日本で、家族は。

ある日、美晴の息子の部屋を、気味の悪いクリーチャーが徘徊していた。

――冗談でしょう。まさか、うちのユウくんも・・・!!??

そこから平凡な家族の、壮絶な戦いが幕を開ける。

 

「リングシリーズ」を連続で読んでいたから、少し休憩して、ちょっと違う系統の本作を読んでみた。

 

なんか…うまく言葉に出来ないけど…。

 

特に、後半で畳みかけるように語られている、異形になった者たちの心の叫びは、過去の自分が重なって共感出来る部分があり、非常に重たい作品だった。

 

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世の中って、広告媒体や映像作品から「普通」「正しさ」「模範解答」「平均的な生活水準」「幸せの形」「こうであるべきライフステージ」みたいな基準を、無意識に植え付けられてるなぁと感じる。

 

たとえば不動産のCMでは、夫婦・子供・ペットのいる庭付き戸建てで、幸せな人生を。

 

たとえば映像作品のひとり暮らしの人は、小洒落た内装&インテリアに囲まれた1DK以上のマンションで、安らげる場を。

 

たとえば映像作品の社会人は、高層ビル内の和気あいあいとしたオフィスで、仕事にやり甲斐を。

 

たとえば映像作品の学生は、友達や好きな人と授業や部活や行事を共に過ごし、輝かしい青春を。

 

みたいな。勿論それ通り受け取らなきゃいい話だし、それだけとは限らないけど。

 

でも、やっぱり誰かにとって都合の良い「これが平均ですよ」「これが幸せですよ」という姿を、子供の頃から大人まで、ナチュラルに刷り込まれてしまっているような気がする。

 

それが間違いとは思わないけど、だからと言って、そうである人達が全員幸せであるとも、そうでない人達が全員不幸せであるとも限らないわけで。

 

人は、生まれ・育ち・環境・状況・遺伝子・性質・体質・気持ちなど、誰一人として全く同じ人はいないのに、"幸せとはこうである" なんて、他人が決められるはずない。

 

便宜上このように記すけど、陽キャ>陰キャ みたいな風潮も嫌い。

 

明るくて、社交的で、友達がいっぱいいて、お休みの日は予定をいっぱい入れたり人と交流したりするのが好きな人。

 

静かで、内向的で、友達が少なくて、お休みの日は家で好きなことをしたり一人でゆっくりするのが好きな人。

 

どっちもいいじゃん。なぜ優劣をつけたがる?しかも、後者を「陰」扱いする層が一定数いるのも腹立つ。余計なお世話だよ!

 

ヒヨコヒヨコヒヨコ

 

「なんで自分はこうなんだろう?」「なんで一般的に良しとされる理想を目指さなきゃいけないんだろう?」と思い悩んでいた頃、ふとこれらのことに気付いた。

 

そして、そういう概念を自分と切り離して考えた時、ものすごく楽になったことを覚えている。

 

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・尊重&信頼(もしくは放任)されて育って、自尊心や自己肯定感や自己表現をする術が備わった人。

 

・あるべき正しさや幸せを押し付けられて尊重されずに育って、自尊心や自己肯定感や自己表現をする術が備えられなかった人。

 

自分で自分の人生を生きていくうえで、この違いはだいぶ大きいはず。

 

子供視点と親視点とでは、考え方も思いも理想も異なる面もあろうかと思うけど…。親は子を不幸にしたくてそれを押しつけてるわけではなく、むしろその逆だから。

 

でも、親も子も、愛があればなんでもして良いとか、なんでも許さないといけないというわけではなくて、相手の行いを自分の好きなように受け取めていいし、全てを受け入れなくて良い。

 

自分の道は、あくまでも自分が自分の足で歩いていく道。

 

そんなことを思った本だった。

 

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作中で、とても良いなと思った部分がある。ちょっと長いけど転記する。

 

年老いた母と、衰えつつある自分と、生死の分からない息子のようなものを傍に置いた暮らし。美晴はそんな自分の境遇を改めて客観視する。

 

世間一般から見れば『ありえない』と言われるだろう。あまりにも希望の無い、細い糸の上で辛うじて立っているかのような家族の形。不安定で歪で、哀れさすら誘うかもしれない。

 

しかしまた考える。この客観視すら主観であると。これはあくまで美晴の思考だ。他人ならこう思うかもしれない、という主観で第三者を作り上げた場合の目線だ。

 

そこからもっと離れて、もっと俯瞰で考えてみる。すると、清美と、美晴と、優一がいる、というだけのシンプルな事実に辿り着く。

 

結局のところそれだけなのだ。良いとか悪いとか正しいとか間違いとかではなく、今ここにそれぞれが存在している、それだけの覆しようのない事実がここにある。

 

肯定的にも否定的にもわざわざ意味付けする必要もない、確かな事実があるだけだった。

 

一度そのことに気づくと、不思議と美晴の心は穏やかになった。他人の反応、ひいては言葉、自分自身を含めた感情、意味と呼ばれているもの、そのすべてがあたかも本物のように振る舞うだけで、実はまやかしであるということ。

 

ただ移りゆく現象と同じようなもので、自分を脅かし害するような絶対的な力は持ち得ないこと。

 

どう在ってもいいのだ。自分も、他人も。すべて己の采配で、何事だって決めていい。

 

本当にその通りだなぁと思った。

 

このことに気付ければ、上の方に書いた "誰かが決めた基準" や "自分なりの人生の生き方" が苦しくなくなるかも。  

 

それまでの自分がどう生きてきたであろうと、過去の自分を否定せずに、いつだって新たに一歩を踏み出せる気がする。

 

現実は簡単ではないけど、でもやっぱりそれだって "主観の客観視" なんだと思う。

 

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「死にたくはない、でも生きたくもない。自分は人間に向いてない。」と思ったことのある人や、親子関係に悩みを抱えている人に、お勧めしたい一冊。