7/30鑑賞
かの有名な「セイラム魔女裁判」を基に描いたアーサー・ミラーの戯曲「るつぼ」(英語ではCRUCIBLE)を映画化した本作。
20年位前に観てかなり衝撃を受けた記憶があって、時たま思い出しては「久しぶりに観たいな~」と思っていたものの、観るまでには至らなかった。
が、最近、劇団四季の舞台「ノートルダムの鐘」や、久住四季さんの小説「トリックスターズ」をみていて、「魔女狩り」について改めて色々と感じたことがあり、久しぶりに本作を鑑賞した。
昔どんな気持ちで観ていたかいまいち覚えてないんだけど、今回は「アビゲイルみたいな人って本当にいるんだよなぁ…」ってことと、集団ヒステリーの怖さと、魔女狩りの史実(どのような過程と方法で魔女認定してどのような刑を与えたのか)の興味を持った。
まず一番に思った”アビゲイルみたいな人”。
思い込みが激しく、譲らず、謝らず、嫉妬深く、自己評価が高く、行動が伴っておらず、邪魔者は排除し、道理よりも感情を優先し、なんでもかんでも他人のせいにし、自分が助かるために平気で他人を犠牲にし、嘘に嘘を重ね、大げさに演技し、引っ掻き回し、いよいよ自分の立場が危うくなるとトンズラする。
しかも、逃げる時は、あらゆることがしっちゃかめっちゃかになって事態が悪化しまくってからサッと消える。遺恨も尻ぬぐいもぜ~んぶ残していく。
ちょうど今、職場でこのような人に数年単位で引っ掻き回されるだけ引っ搔き回されて、売上も利益も複数案件も複数取引先からの信用も大幅に失って、それだけでなくある案件で莫大な損害費用が発生し、会社の存続も危ぶまれる段階になって、その人が辞職することになって。
「あ、コイツ逃げたな」って社員全員が思ったよね。しかもロクに引き継ぎもしようとせず、有給とりまくり&次の仕事へのワクワクが止まらない模様。
アビゲイルのやったこととは全くもって比較にならないし、決して悪人ではなく良いところもたくさんある人だけど、もうほんっとね…やるせない。
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本作では、アビゲイルを含め「セイラム魔女裁判」で実在していた人物が何人も出てきている。人物像や出来事がどこまで事実に沿ってるのかは判断がつかないけど、色々調べてみるとそこまで遠からずな印象を受けた。むしろ、結構近い。
アビゲイルの嘘と演技が発端で起きた少女たちの集団心理は非常に悪質で、嘘を積み重ねるにつれ事態が大きくなり過ぎて後に引けなくなっていく様、そして集団心理が周囲にとって悪い方にばかり働く様は、筆舌に尽くしがたかった。
そもそもは恋する女の子たちのおまじない的な秘密の宴だったのに、客観的には悪魔憑きの降霊と似たような証拠ばかり出てしまったため、悪魔憑きと判断されることを恐れて出た嘘。
根本は当時のキリスト教の魔女狩りという社会的風潮がどれ程恐ろしいものだったかという所に辿り着き、それを子供たちが恐れて疑いや罰から逃れたいと思うのも当然だとは思うけれども、子供ならではの無邪気や邪気がここまで凶悪になってしまったのは、タチが悪いでは到底済まされない。
実際、少女たちが最初に告発したのは村人の中で立場が弱い人達だったことや、「みんなで楽しく過ごしたいから遊びでやっている」と仄めかしていたことや、アビゲイルが事の最中で行方をくらましたことや、裁判収束後も自分たちの嘘を認めなかった等の記録が残っている。
また、その告発によって150人近くが逮捕されることとなったが、次第に少女たちの告発を疑問視する村人たちの声が増え始め、ついには総督まで話が届き、裁判の散会と、更なる逮捕者の禁止と、収監者への大赦が発令され、事態は収束したそうな。
セイラム魔女裁判で処刑された人物は、全員が魔女(もしくは悪魔憑き)であることを否定した者たちで、魔女(もしくは悪魔に唆された)であることを自供した者は一人も絞首刑になっていないとのこと。
が、無罪有罪に関わらず、全ての被告人は、獄中での生活費用と、死刑執行人の手当てに至るまでの全ての費用と、出獄費用の支払い義務が課せられたため、全員の釈放が決定した後でも多くの人が獄中に残され、獄中死しても遺体の引き渡しに料金が請求され、支払わなければ遺族が遺体を引き取ることも出来なかったという。
最終的に、刑死19名・獄死5名・圧死1名、計25名の死者が出た。近世の魔女裁判の中で集団心理が暴走化した最も有名で悪質な事件だと言われている。
映画では、裁判の序盤の方で亡くなった数名のところで終わっていたし、費用についての描写もほぼなかったけど、現実はもっと凄惨だった…。
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ノートルダムを観ていても強く思ったけど、「魔女であることを認めたら死刑を免れる」「魔女であることをを否認したら死刑」って、本当に意味不明。
宗教の概念によって「魔女(悪魔憑き)=悪=排除する対象」なのであれば、魔女と認めた人こそ死刑な気がするんだけど…。
100歩譲って「認める=改心?改宗?する=死刑を免れる」は理解できるとしても、「認めない=死刑」って絶対に変じゃない?
私情や気まぐれから誰でもいくらでも偽った告発が出来るし、魔女ではない被告にとって「魔女であることorないことの証明」なんか不可能でしかないし。
「認めない=死刑=殉職or自分の正義や信仰を貫く」として美しく尊いものとして描かれるのも理解は出来るけど、なんだかモヤモヤしたものが残る。
冒頭に書いた通り、原作の戯曲は「るつぼ」だそうだけど、”CRUCIBLE”は他に「試練」「苦しい経験」という意味もある。
私には後者の意味の方がしっくり来るストーリーだった。