最初のうちは、本気でこう思っていました。

「全部、飲み物にしてほしい」と。

噛むのも、飲み込むのも辛い。
栄養さえ取れればいいから、スープやジュースだけで済ませたい。
「こんなにしんどいなんて、食べたくない……」
本気で、何度もそう思いました。

それでも、私は食べ続けました。

誰かが運んでくれた、その一口のごはんを。
震える手で、少しずつ口に運びながら、何度も何度も思ったのです。

「食べるって、なんてすごいことなんだ」と。

 

そんなある日、再び赤ちゃんの姿が頭に浮かびました。

ミルクを飲む赤ちゃん。
おかゆをこぼしながら、口の周りを汚しながら、それでも真剣に食べようとする幼い命。


彼らは、ただ食べているのではありません。
毎日、“命と向き合っている”のです。

誰にも教わらなくても、赤ちゃんたちは必死に食べるという営みを続けています。
喉に詰まらせながら、涙を流しながら、噛み方を学び、飲み込み方を覚え、
少しずつ“人間としての食事”を体得していくのです。

その姿は、驚くほど尊く、まぶしく感じられました。

 

今まで、私はそれらを「当たり前」だと思っていました。
右手でスプーンを持ち、左手でお茶碗を支え、口に運び、飲み込む。
たった数秒のその動作の中に、どれほど多くの筋肉と神経、そして意思の力が必要だったのか――
それを失って初めて、私は知ったのです。

「食べること」は、生きることそのものであり、
「食べようとすること」は、命が今ここにあるという確かな証でした。

私たちは、普段の生活の中で、その奇跡に気づくことはほとんどありません。
何気ない日常に溶け込んでしまうからです。

しかし、すべてを失った瞬間にだけ、はじめて見えてくる“当たり前の神聖さ”が確かに存在するのだと、私は身をもって知りました。

 

私はもう、二度と赤ちゃんを𠮟ることなんてできないと思います。
「こぼすなよ」と軽く言っていた過去の自分を、今では恥ずかしくすら感じます。

だって、50歳を過ぎた私自身が、同じようにこぼしているのですから。
むしろ、赤ちゃんの方が私よりも上手に食べられているかもしれません。

「生きよう」とするその姿は、理屈ではありません。
それは本能であり、勇気であり、祈りに似たものだと感じます。

その日、私はひと口ひと口、命をかみしめていました。

 

ーつづくー

命の営み

 

そのたびに、「何もできない自分」を目の当たりにしていました。

そして、静かに思ったのです。

「これは、体が壊れたのではない。
自分が、自分に期待しすぎていただけなんだ」と。

 

できていたことが、できなくなる。

すると私たちは、自分の価値が下がったように感じます。

でも、本当は違うのです。

 

私たちが思っていた「自分」という像は、
ただの幻想だったのです。


 

こぼした食べ物が、トレーの上に、そしてエプロンにまで広がっていきました。
「気をつけなきゃ」と思っていても、手は思うように動きません。
落としたいわけではないのに、どうしてもこぼれてしまう。
気がつけば、食事のトレーはすっかり“ぐちゃぐちゃ”になっていました。

まるで、小さな子どもが食べたあとのような光景でした。
そのとき、ふと、ある光景が頭に浮かびました。

「……ああ、赤ちゃんって、こういうことなのかもしれない」

 

これまでは、赤ちゃんがスプーンをうまく使えず、
手でぐちゃぐちゃにしながら食べる姿を“未熟”だと思っていました。
「まだうまくできないから仕方ないね」と、どこか上から目線で眺めていた気がします。

 

けれど、その瞬間、私は心から痛感しました。

“手で食べる方が自然なんだ”と。

不器用なのではありません。未熟なのでもありません。
人は、生きることに対して、本能的に“やれる方法”を選んでいるだけなのだと。

スプーンを使えなければ、手で食べる。
それは、命のためのまっすぐな行動なのです。

 

私は、ただ食べるということだけで、精一杯でした。
そしてようやく理解しました。
赤ちゃんが日々向き合っている“命の営み”のすごさを。

さらに、私を驚かせたのは――
食べるという行為そのものが、信じられないほど疲れるという事実でした。

噛む、飲み込む、それだけ。
これまでは、そんなふうに簡単に考えていました。

 

しかし、実際は違ったのです。

噛むという動作には、舌や頬、首、胸、背中に至るまで、全身の筋肉が連動していました。
その全身運動が、これほどまでに体力を消耗するものだとは、思いもしませんでした。

一食を終える頃には、まるでフルマラソンを走り切ったかのような感覚すらありました。

私はこれまで、食べることを“楽しみ”や“娯楽”の一部としてしか捉えていませんでした。
 

ただ、実際にはそれが、これほどまでに“命の仕事”だったのだと、初めて知ったのです。

ーつづくー

「スプーンが重かった日――“食べる”という命の営みに出会いなおす」

 

あの日のことを、私は一生忘れることはないと思います。
初めて、病院のベッドの上で食事が運ばれてきた日でした。

何気ない朝の光が、静かに病室に差し込んでいました。
窓の外では、まるで自分の状況とは無関係に、季節がゆっくりと移ろっていました。

そして、私の目の前には、プラスチックのトレーに乗った食事が置かれていました。
あまりにも“普通”な顔をして、そこにありました。

しかし、その“普通”は、今の私にとっては驚くほどの“挑戦”だったのです。

私はそのとき、鎖骨を骨折しており、右腕がまったく上がらない状態でした。
しかも左手も骨折していて、ほとんど自由が利きませんでした。
ベッドの上で体を少し起こすだけでも一苦労で、呼吸さえ浅くなりがちでした。

そんな私の前に、介護用のスプーンが差し出されました。
柔らかい素材でできていて、手の動きに合わせて曲がる、まさに“人に優しい設計”でした。

けれど、その“やさしさ”でさえ、今の私には遠すぎるものでした。
スプーンを持つだけで、信じられないほどのエネルギーが必要だったのです。

 

「できない」から始まる命

初めてスプーンを手に取った日、私は気づいてしまいました。

「スプーンが重い」という事実に。

それは、単なる物理的な重さではありませんでした。
「自分が思っていた自分像」が砕ける感覚だったのです。

 

私は、早食いが得意でした。

忙しい仕事の合間に、サッと食べて、次の仕事に移る。
その効率の良さが、どこか“有能さ”や“自立”の象徴だと思っていました。

 

でも今回私は、骨折した左手でご飯を食べるという選択を迫られます。

持ち上げるだけで、驚くほどのエネルギーを使いました。

食べ物をすくうことも簡単ではありませんでした。
 

震える手は、思った場所にうまく届かず、せっかくすくっても、口に運ぶまでにこぼれてしまいました。

 

しかも、腕をほんの少し持ち上げるだけで、すぐに疲れてしまったのです。
たった一口を運ぶだけで心拍数は上がり、深呼吸が必要になるほどでした。

食事が運ばれてから、実際に最初の一口を口に入れるまでに、私は相当な時間と労力を要しました。

一口すくって、運んで、こぼして、またやり直して、ようやく口に入れて、噛んで、飲み込む――


そのすべての工程が、今まで無意識でこなしていた“自動運転”ではなくなっていたのです。

 

ーつづくー