<東大から考えるジェンダー (6/6)> 【「共感」に頼り過ぎない】 | Yoshitaka's blog

<東大から考えるジェンダー (6/6)> 【「共感」に頼り過ぎない】

社会の問題を考えるにあたって、人間は「共感」できるかどうかに頼りがちである。「ああ、差別されている人がいてかわいそうだね」とか、「自分は差別しないようにしている。なのに、その『差別の構造の一員だ』みたいな言われ方をすると腹が立つ」などといった感情を抱きがちだ。もちろん、誰に/何に共感し、誰に/何に共感しないか、は全くもって個人的な事柄だし、共感の感情を持つことは人間として自然なことだ。しかし、このような「共感」は必ずしも社会を正確に分析し、公平で公正な社会を実現するためには役に立たないことがある、という点には注意が必要だ。「共感できる」ものにしか関心が寄せられない社会は、果たして望ましいものだろうか?市場メカニズムでは解決できない問題は「外部性」として、文字通り市場の外部に追いやられる。だが、共感によってその市場の外部の問題を非市場的なメカニズムでケアすることは可能だ。だが、共感すらされないものは、「共感の市場」においてすら、その外部に追いやられる。

 

参考

朝日新聞 永井陽右 連載「共感にあらがえ」

https://www.asahi.com/and_M/seriese/empathy/

私としてはいくつか同意できない部分も無いわけではないが、共感と理性とのバランスを保つこと、という指摘は重要だろう(注6)。

 

上記の連載第3回目の記事でも触れられているが、どうして、NGOや国連系ドナーなどは、「かわいそうな」子供の写真を使い「○○ちゃんを助けて下さい!」といった広報戦略をしばしばとるのだろうか?しかし、実際の援助の仕組みなどを考えれば、人によっては、どこかモヤモヤした感じを抱く方がいるかもしれない。

 

こうした、「かわいそうな」特定の人を前面に押し出す広報戦略の理由は、例えば

 

RF-077 世代間・世代内リスクトレードオフと持続可能性

(2)世代間・世代内のリスク解析と管理原則

産業技術総合研究所安全科学研究部門 岸本充生

https://www.env.go.jp/earth/suishinhi/wise/j/pdf/J08RF077200.pdf

の3ページ目

「(2)距離についての関心の減耗」

に論文が複数引用してあるように、(元論文をきちんと読んでいないので、サンプリングの仕方など、どのくらい妥当なのかは分からないが)、生身の人間が単なる統計数字に落とし込まれた時、「思いやりの崩壊」と呼ばれる現象が起きる。人間心理には一般的に「世界で飢えている○人のために!」よりも「△△ちゃんが飢えています!」というメッセージの方に共感しやすい、という性質があるようだ。こうした心理に訴えるのが効果的だからなのではないか、と推測している。人間は全人類を救うことはできない。自分にとってつながりのある人から助け合っていくしかない(これは個人に限らず、どんなNGOもどんな国家のODAも同じだ)。確かにテクノロジーの発達により、地球の反対側のことが分かるようになったとしても、人間が本来、有限なる存在の動物であることを思い起こせば、自分にとって身近に感じられる人に対してのみ共感し、助けたいと思う心理は必然なのかもしれない(上記文献5ページ目には、「ヒトが適応した集団サイズの上限が150人程度」という研究が引用されている)。

 

だからこそ、社会の現象を把握するには、統計の力を借りることが不可欠だ。確かに、統計それ自体は無味乾燥なものだ。しかし、統計数字は思いやりを「崩壊」させるためではなく、思いやりの「再構築」のためにあるのではないだろうか。この点からは、上野氏の祝辞の統計に対する扱いが雑であったのは残念だ。一方で、何を統計の俎上に載せ、何を載せないか、は共感に左右される。共感を疑い、そして統計も疑う。更に、統計に対して向けられた疑いの眼差しから、自分が共感するものを新たに発見し、共感が拡大される。共感と統計との間で、共感を疑い、統計によって気づき、共感を拡大し、統計によってもう一度共感を疑う、という循環を繰り返すことで、私たちはより正確に世界を見渡せるようになるだろう。しかし、世界が不変でなく、私たちの時間が有限である以上、この循環は決して収束することはない。

 

私たちは、時に、あまりに「当たり前」すぎて、その「当たり前」に気付かないことがある。それは、社会の成員である以上、マジョリティもマイノリティもその構造を前提として、「当たり前」としておかないと生きてゆけない状態なのだ、ということには共感できる。だが、その瞬間に足を止め、「当たり前」を疑い(もちろん、自分の過去の経験から自由ではいられないのだが)、共感も重要だが、それを一旦措いてもなお、理性を働かせることで見えてくる、より「良い」社会の在り方を考えてゆきたい、と思う。

 

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注6: おそらく、永井氏の主張の根底には、”Human Rights Based Approach to Development”があるのではないかと思われる。支援を行う際、「何が足りないか」を見出し、それを補うのではなく、「本来保障すべき人権が侵害されている」と考え、その人権を回復する、という考え方だ。

参考

川村 暁雄「国際開発協力の新たな潮流 - 人権に基づく開発アプローチ」

https://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/sectiion3/2008/01/--.html