<東大から考えるジェンダー (2/6)> 【上野氏の祝辞の射程範囲の広さ】 | Yoshitaka's blog

<東大から考えるジェンダー (2/6)> 【上野氏の祝辞の射程範囲の広さ】

そして、この祝辞はジェンダーによる差別の構造を一つの例としつつ、それに限らず、あらゆる差別・格差を普遍的に語っている。

「世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。」「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。」

これらの主張は、リスク回避的な一般的な人を想定すれば、ロールズの「無知のヴェール」にたどり着くものであり、リベラリズムの原則的な立場だ。「私」は「私」だが、「あなた」は「あなた」だ。そして、「私」は「あなた」ではなく、「あなた」は「私」ではない。この偶然性、不可思議性に思いを致す時、「私」にとっても「あなた」にとっても良い社会になることを誰もが願うだろう。

 

私はこれまで、いろいろな人と出会い、性別によるものに限らず、人生のかなりの部分は「運」に左右されるのではないか、と感じることもある。例えば、塾でアルバイトしていた時に、頑張っても報われない生徒を見てきた。「毒親」の元で、本人も発達障害あるいはなんらかの精神疾患に苦しんでいるような人にも出会ってきた。私のいとこは、早稲田大学の受験当日、高熱を出してベッドから起き上がることすらできず、早稲田への進学はかなわなかった。私のある友人が家庭教師のアルバイトで中学2年生に連立方程式を教えていたが、いくら教えても理解してくれない。よくよく聞いてみると、方程式自体を理解していなかった。そこで、方程式を教えたものの、それでも理解してくれない。更によくよく聞いてみると、その子は引き算を理解していなかった、というのだ。断定はできないが、何らかの学習障害の可能性があるかもしれない。私自身はと言うと、運に助けられた部分もあるし、一方で「もっとこんな運に恵まれていたら、こんなことができたのに」と、残念に思うこともあった。成功している人はもちろん努力したのだろうが、「努力できる条件・環境」が揃っていたのだろうし、自分自身では気付かない「運」もあったかもしれない。