今日は妻が子供たちを連れて実家に行ったため、日中から夜まで一人で面会を担当した。

4月に切った髪が長くなってきたので、少し短めに散髪をする。1月初めには最後になるかもしれないと感傷に浸ったが、もう4回目だ。

おでこにガーゼが当ててあって、周囲をテープで貼っているので前髪の生え際が難しいが、横になった状態での散髪も慣れてきた。

厚型のペットシーツがあれば、タオルがなくとも2枚あれば頭全体をシャンプーでき、性能の高さに驚かされる。

 

また、数日前に「米国の意識回復プログラム2005」を参考にリハビリを考えた方のブログを見て、できることを採用したいと考えたため、そうちゃんの担当看護師とも共有し、光刺激を行ったり、フレーバー歯磨き粉を導入したりすることを認めていただいた。

担当看護師はとても前向きな方で、(以前は)お風呂に入れてくれたり、うつ伏せにしてまでしっかり肺ケアをしてくれたり、こういった相談をすると看護の面倒になることでも逆に「考えてくれてありがとうございます!」と感謝してくれるのである。

頼りになる方で本当にありがたい。

 

早速、瞳孔計とフレーバー歯磨き粉(パイナップル、ダークチョコレート、ブルーベリー、キャラメル)をポチる。

 

夕食は久しぶりに外食をして、リンガーハットの野菜たっぷり皿うどんを食す(相変わらずの大ボリューム)。

そこで考えていた。

そうちゃんは何もできなくなってしまったけれど、本当に何もできなくなってしまったのだろうか。

このような状態になったそうちゃんのこの世での使命はまだ何かあるのだろうか。

(なかったら、そうちゃんのブループリントで決めてきたそう遠くない未来に亡くなってしまうのではないか)

そんなことを考えていたら、自分とそうちゃんのブループリントを書き換えるつもりで、ブログを書くことを思いついた。

それで、今日もこのブログを書いている。

この始まりもインスピレーションだったのだろうか?

 

そうちゃんを癒すために私の人生も大転換を迎えて、新たな世界で様々な経験をしたり、交流が始まっていることはここまでの日記でも伝わると思う。

このブログにはそうちゃんの使命を乗せた想いがあるので、ビジネスのためでも組織宗教への勧誘でもなく、私の吐き出しに使うつもりはありません。

不思議な話はしますけど(笑)、安心してご覧ください。

 

夜はお清め風呂をして、そうちゃんの昔の思い出動画を編集し、病院に持っていけるタブレットに追加した。

 

(参考)

シルバーバーチの霊訓に、安楽死の問題に絡めて植物状態に関するシルバーバーチの言葉があるので転載する。

きっと、使命はある。

 

───交通事故に遭った人の話をよく記事で読むのですが、病院へ運び込まれたあと一命を取り止めてもそのまま植物状態となって、自分の力では何一つできなくなっている人がいます。そのような状態で生きていても霊的に何の成長もないと思うのですが、なぜ地上に居続けねばならないのでしょうか。なぜ安楽死させることが許されないのでしょうか。

 「バイブルのどこかにこんな言葉があります〝神が与え、神が奪われる。ありがたきかな神の御名〟(ヨブ記1・21。 バイブルでは〝奪われた〟とあるが引用文は現在形になっている───訳者)

 私がこの文句を引用したのは真実そのとおりだからです。人間は生命を創造することはできませんし滅ぼすこともできません。生命が機能するための機関を提供することはできます。その機関を破壊することもできます。しかし生命は神からの贈りものであり、人間のものではありません。生命は神が人間に託した責務です。

 なぜ? というご質問ですが、それについては、物的尺度だけで判断を下さないように注意しないといけません。霊の問題は物的尺度では計れないのです。

 植物同然となってしまった一個の人間をご覧になれば、自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫をさそわれるのも無理はありません。しかし植物にも生命があり、地上で果たすべき役目があります。そうでなければ存在しないはずです。

 一人の人間が事故で負傷する。機能の損傷がひどくて霊が自我を表現できなくなった。この問題をあなたは身体上の問題としてみますか、それとも霊的な問題とみますか。霊的にはそこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓があり、忍ぶべき体験があるのです。たしかに見たところ身体的にはまったく動きが止まっています。

 しかし霊的な目をもって見ることができるようになるまでは、つまり永遠の価値基準を理解できるようにならないかぎり、あなたの判断はどうしても誤りに基づいたものとなります。

 私はいわゆる植物人間を安楽死させることには全面的に、そして文句なしに反対です。ただし、そこにやむを得ない動機がありうることは認めます。しかしそれは問題を解決したことにはなりません。

 あなたがもし安楽死を実行する時期の決断を誰かに任せたら、それは本来その人が持つべきことの出来ない権利を与えたことになります。その人にはそういう決断を下す義務も与えるべきではないのです」(シルバーバーチ8巻)

 

※「生命」は永遠に存在する霊ベースと考えて読むとわかりやすいです(転載者注)