2023年の秋、私が「自分で服を作りたい」と言ったとき、母はとても喜んでくれました。

そして、「うちは裁縫が得意な家系だから、きっとできるよ!」と励ましてくれました。



母によると、私の祖母(母の母)、そして祖母の姉と妹(母にとっては伯母と叔母)が和裁・洋裁がとても得意だったようです。

その影響で母も小学生の頃から服を作っていたとのこと😳

今まで断片的に聞いていたそんな話を、あることがきっかけでもっと詳しく知りたくなり、時間をかけて母に聞いてみました。

 

点と点を繋いで「線」にしたら、何か新しい発見があるかもしれません。

 

 

1950年代、1960年代「戦後の洋裁ブーム」 

 

母が小学生だった頃の話

 

そのころの母は夏休みの間、祖母(=母の母)の姉や妹の家で過ごすことが多かったそうです。

母にとっては伯母さん・叔母さんですね。

どちらの家に行っても、毎回母の体を採寸して、型紙なしでかわいい服を作ってくれたとのこと。

白地にピンクの水玉模様でフリルのついたワンピース、スカート、ブラウス⋯⋯。

母の兄のシャツやズボンも縫ってくれたそう。

祖母(母の母)も内職で着物を縫ったり、子どもたちの服作るのが日常だったようです。

ブラウス、スカート、ズボン、コート、セーター、すべてが手作りです。

 


小学生だった母も、その影響でキューピー人形の服を作るようになりました。

人形の服の他にも、刺繍をしたり、ぬいぐるみを作ったり、レース編みでコースターを作ったり、リリアン編みで作った腕にはめる「ミサンガのようなもの」を友達と交換していたとのこと。

最初に作った自分用の服は、小学校の夏休みの自由課題として、祖母(母の母)に縫い方を教えてもらって作った「ギャザースカート」。ウエストはゴム入り。

中学校の授業では浴衣を縫い、高校の授業ではワンピースを縫ったそうです。

すごいなぁ〜。

 

私なんて学校でミシンを使った記憶すら、全くないのに💦

 

 

 

 

母が10代後半だった頃の話

 

高校を卒業した母は就職し、仕事が終わったあとの時間帯に「洋裁学校」に通い始めました。

定規などの指定の道具を購入し、その学校独自の「原型」を製図し、タイトスカート、ブラウス、ジャケット、スーツの作り方を学びました。

しかし帰宅時間は夜。10代後半の彼女に危険が迫ります😱

暗い夜道をずっとつけてくる見知らぬ男、そしていきなり肩をつかまれ⋯⋯

彼女は持っていた「長い定規(洋裁道具)」で闘い、全力で走って逃げました💨

そのことがきっかけで、半年で洋裁学校を辞めることにしました。

とても残念ですが、トラウマ級の恐怖には勝てません。



母はそのあと、洋裁雑誌に載っている囲み製図付属の型紙を使って服作りを続けました。

半年間学校で基礎を習ったし、道具もあります。

そして本に載っていた「文化式原型」の方が、学校独自の原型よりも自分の身体に合うことに気づきました。

主に職場に着ていくスーツ、タイトスカート、プリーツの入ったスカート、フレアスカート、リボンタイのブラウスなどを作っていたそうです。
 

 

 

世代を超えて⋯⋯ 

母が結婚したあとの話

 

母は結婚後、私と弟が生まれてから「子ども服」も作るようになりました。

私は母が作ってくれる服が大好きでした。

特に「ティアード・スカート」の影響力は凄まじく、私が服を作るときの「ギャザーへの変なこだわり」の原因となっています😆

私が小学生の頃、いつも部屋の壁には「母の刺繍作品」が飾られていました。

花の刺繍、お雛様の刺繍、それらは季節ごとに入れ替わります。



その頃家にあったミシンの形も、私は鮮明に覚えています。

すっごくかっこいいデザインの、ブラザーの「家具調(?)電動ミシン」。

どう説明したらいいのか、机とミシンが一体化したような構造でした。

折り畳み式の作業台をパタンと左側に広げることができ、さらにはミシンを天板の下に収納することができて、普段は「机」として使える。

前面の扉を開けば、その中に椅子が収納できて、その椅子には赤い布のクッションがついていました。

右側にはいくつも引き出しがあって、裁縫道具やボタンなどを入れていたんです。

1995年、引っ越した時に処分してしまったけど⋯⋯。

付属の「部品入れケース(?)」だけが残っていて、今でも「ボタン入れ」として活用しています。

こんなにもミシンが身近にあったのに、私が一度も触ろうとしなかったのは、このミシンが「母の聖域」だと感じていたからかもしれません⋯⋯。


 

それ以降の話


しばらくミシンがなくて不便だと感じた母は、とりあえずということで 一万円台の安いシンガー製ミシンを購入しました。

もう子どもの服は作らなくていいし、自分の服もたくさん縫ってきたので、それで十分だったそうです。

 



そして母はその後、仕事を通じて知り合った方から「ちりめん細工」を教わることになります。

それから毎年、「次の年の干支」の置物を作り、棚に飾るようになりました。

順番に作って、12個目(偶然にも母の干支)の置物を作ったのを最後に、ちりめん細工作りは終了。

「もう細かい作業がしんどい、目が疲れるから」と言っていました。
 

 


刺繍糸、毛糸など、もう使わないであろう大量のものをどうするか悩む母。

母は私に「まだまだ使えるから、使ってくれる?」と聞いてくれたのですが、その当時の私はそれどころではなくて、「要らないから、全部捨てていいよ!」と答えました。

今でも母は、「あれは勿体なかったね〜」と言います。

ごめんね💦  でも私、編み物は全くダメなんだ😮‍💨

 

それは仕方ないとしても、その他のミシン糸や洋裁道具一式はそのまま残してくれていたので、洋裁を始めた私にはとても役立っています。

私ができるのは、それらを最大限に活かすこと。

 

受け継いだ道具で一番古いものは、私の祖母(母の母)が使っていた「1メートルの竹尺」です。

 

この竹尺は、3世代の服作りを支えてくれているってことです!


 

(続く)

 

 

『かけがえのない「いま」』

 

🍋 れもん 🍋

 

2023年の秋に「自分の理想の服は、自分で作る」と決めました。

 

 

それからの道のりを振り返り、2026年2月からこのブログにまとめていっています🧵🪡