全部自分の責任じゃない

なんか自分だけがってなってしまうけど

そりゃあ

ストレスフルなことがあったとき

害があったとき

こどもだったら

その原因帰属が混乱することなんてよくある

大人が、線引きして返すための、明確な言語を中心としたストロークが必須なのだけど、特に外向的な性格でなければなおのこと、一人で抱え込んで、もっとも帰属しやすい

私が全部悪いとなってしまう

それは、事実からみると全く持ってナンセンスなんだけど

心的現実はそうなるわけだ

大人になっても

その心的現実を生きることになるから

なんともない

同じ空間にいるだけでも

一人芝居をはじめてしまい

自分がその空気の全責任を負うみたいな


空気はみんなで作っていて

一人をスケープゴートにして

あいつが悪いから

空気が悪くなっている

なんて

よくよく言われるけど

そんなことはないだろう

じゃあ空気を良くする方向のアプローチをとればよいではないか?

それをせず、その場の責任を一人になすりつけることによって

凝集しようとする


スケープゴートとなったものは

そのような理不尽さ

悪意というものを体験する

これはまさに

アウシュビッツなる世界であり

人のおぞましさ

汚さ

そのようなものを目撃したものとなるわけである

明確な悪意を目撃したものは、もはや

以前の安穏な世界に戻ることはかなわない

その世界を生きていくしかない


なんで?なんで?私だけ?

激しい怒り、絶望、不信感、そのあまりに強い力動に圧倒され、現実生活は戦場と化し

多数の安穏な世界を生きている人にとっては

??と映るわけである


しかし当人にとっては

圧倒的なリアルとしていまここにあるのである


それはわかりっこなくて

想像するのは難しい

そこに接近するあり方はあるにしても

わからないんだけど、苦しみがあるんだという仮定だけでも違ってくる

そういう思いやりが育っていけばよいのだが


だから

まず

なんかとんでもないことをしてしまった感じの

心的現実と

多数派の構築している現実は違うんだ!

という事実を認識する必要がある


だから実は大したことなくて

全くジタバタしなくてよい

というかジタバタしても意味はない


起きることが起きた

それ以外が起きる可能性はなかった

人は取りたいようにとって見たいように見るじゃないか?


あれ?なーんだ、あれってただの一幕で

リアルはもっと安穏としている

私は悪意の目撃者だからこその心的現実が圧倒的に迫ってくる


そこに至るまでのあらゆる起きることの寸分狂わぬ組み立て、組み合わせのなかで、いまここが現在しているわけで

あーしておけばとか

こうすべきだとか

思うのは人間の感情反応として仕方がないとはいえ

それが起こったということで終了ですよね

降参する

心的な現実ではない

というか違う次元の平穏がそこにあって

それに一喜一憂するとしても

根っこで あるがままを体感していくしかないのではないか?