経済雑誌Wedge11月号の「袋小路の沖縄」になかなか特集されない現実的な沖縄の悩みが多く記されていた。
頁内での方向性に関する強い意見も知らない本土の人たちには刺激的だったかもしれない。
私は、この雑誌で指摘されている「基地返還後の跡地利用をどう進めていくのかという、返還の先に待ち受ける課題にも焦点をあてるべきではないだろうか。」に賛同して少し情報をプラスしてみたいと思います。
一からやり直す復興は、とてつもなく時間がかかることです。神戸や東北の震災だけではなく、異常気象による大きな被害を受けたところも。
沖縄の基地問題は、捨て石作戦とされた上陸作戦・その後の接収の上に今があり、既に返還された土地の復興でさえ、未だに様々な検討の中で少しずつ回復が図られているものだ。戦後、73年たっていてもだ。
沖縄戦の米軍が最初に上陸したのは「読谷村」だった、日本軍飛行場があり、上陸後は村の95%が接収された。飛行場は戦後、米軍の飛行場として拡張利用された。戦後30年位のちに返還されたが未だに、その姿は空からみることができる。Google Earthの画像で読谷村役場周辺をピックアップしてみたら、
読谷村は日本で一番大きな村。那覇の壺屋の登り窯移を誘致したり、様々な村おこしがなされてきたのだが、今現在も米軍通信施設トリイステーションはある。
写真4は日本軍の飛行場、写真5は米軍飛行場となってからの画像。
上から順番に時間が経過している。最後の画像が直近、といっても平成17年頃のもの。飛行場の形が現在もくっきり残っているのがわかるでしょう。私は数年前に読谷村を一周して役場にも立ち寄ったのだけど、役場の周りだけはきれいになっていたが、そこにいたる経路はずーと空き地のままの個所が多くあり、再利用のむずかしさを実感した。
左側から、キャンプキンザー(牧港補給基地)、普天間飛行場、上がキャンプ瑞慶覧。両サイドを主要幹線の58号線と330号線を色付け。
この跡地をどうするか!
どんなにはしょっても計画骨子づくりだけでも5年はかかる。下手すると20年かかる。そして膨大な調査費用や会議出席者の時間、なによりも先々の回収計画もいる。およそ読めない投資回収計画だ。
沖縄県では、「沖縄21世紀ビジョン」を毎年少しずつ策定してきている。絵に描いた餅である。実現できるかもわからない。希望とか夢を詰めていくしかないものだ。戦前に戻すだけではダメなのだから。
普天間飛行場跡地をどうするかという地元の意見をまとめたものがある。決定したものでもない。
詳しく見たい方は、こちらを:https://www.pref.okinawa.jp/21vision/
普天間飛行場跡地未来予想図:https://www.pref.okinawa.jp/futenma-mirai/
消費された時間の長さをイメージしながら見てほしいと思います。
跡利用を考えずに基地返還問題は進まない。普天間で3800人、牧港で2800人の軍用地主がいらっしゃる。地代収入があったからさらに相続や売却で鼠算式に増え続ける権利者が基礎にいる。しかも、接収された場所は基本的に水はけもよく高台だったり環境のよい場所だ。接収が解けるまでも解けてからも復興は一筋縄ではいかなさそうだ。
でも、やり続ける必要がある。
大きな問題点は、沖縄の人口144万8千人に対して、狭い中で商業施設を増やせば食い合いにしかならず、また、生産活動にも難しさがある。唯一、ツーリズムとして地元産品、体験等の機会づくりは伸び傾向にあり期待が持てる。
沖縄に住みたいが仕事がない、しかたなく出稼ぎに出るという歴史を持つ。それは、大きくは変わっていない。
沢山の補助金漬け等のあと始末は簡単ではないだろう。