このことは、私の根本的なところを根こそぎ変えるような出来事でした。
今まで見ていた世界は、自分の存在を誇示するためだけの世界だったのだということがはっきりとわかったのです。
誰かとの会話一つにしても、自分の存在を認めてほしくて話しているようなそんな感覚。
いつも視界にあるのは自分。
相手のことなんて一つも感じられていない。
自分のことしか見えていないし考えていない。
でも見ていると思っていた自分も、実際は世間のフィルターのようなものがかかった自分で。
そんなことをまざまざと感じた日でした。
それは一昨年の9月頃、そらさんの『本質のバトン』というものに参加した時のことでした。
何で知ったかは覚えていないのですが、その前の年からずーっと気になっていたのを覚えています。
その頃半年ほどカウンセリングを受けていて、過去の家族のことを色々自分の中で掘り起こし、土台をきれいにしていたときだったので、特に現状困ったことはなくでも何か気になるなーと言う感じで参加したものでした。
そこで話されたことで衝撃的だったことは
「あなた達は自分の正しさをぶつけ合っているだけ」
「いくら期待に応えても相手は救えない」
という言葉でした。
あとは、
「あなたは何が足りていないんですか?もうこうやって生きていて充分じゃないですか。」
ということも言われてびっくりしたな〜。
とにかく考えさせられる、というような半端なものではなく、一撃されたような感覚でした。
その日から、私が見ているもの全部にフィルターが掛かっている感覚がして、どういう世界を生きているのかがわからなくなりました。
そして、すべての価値観はどうでもいいことなんだと思いました。
自分の存在を誇示することと、自分の生命を生きるということは、全く違います。
自分の存在を誇示するということは、相手に自分を全部委ねてしまっている状態で、一生答えは出ないし本当の意味での安心感を得ることはない。
自分の生命を生きるということは、自分を感じながら相手を感じること。不安でもいいという安心感の中にいる。
振り返ると、『本質のバトン』はそれを知る時間と空間だったのだなあと思います。
それに気がついたからといって、自分が置き去りになっていたり、相手が置き去りになっていたりすることは多々あります。
でも、そこを試行錯誤して育んでいくものが人間関係だと思うし、その試行錯誤している事自体が自分の生命を生きるということなんだと思います。
だから深刻になることは少なくなったし、どちらかというと、実験のようで面白いです。
わけのわからない価値観の中を生きていた自分。それをかき集めてきたのも自分だったら、そこから脱することもまた自分でできる。
誰かからコントロールされることは本当の意味ではできないし、誰かをコントロールすることも絶対にできない。
自分の生命を、人生を生きるために生まれてきたと思うから。
今ここで自分を精一杯生きるだけ。それが幸せなことなのだと思います。