同じ問題を繰り返してしまうとき、どのような思考パターンがあったのか
慢性疼痛をきっかけに自己内観をひたむきに進めてきた中で、自分には「他者と関わっても、きっと傷ついたりして、満足できる経験にはならない」という無意識の思考パターンが根強くあると気付き、自覚してもなお、この観念をずーっと手放せずにいました。
精神医学の本を読んだとき、こうした考え方は愛着障害の人の思考パターンの一例として挙げられていました。
自分を障害の名でカテゴライズすることが目的ではなく、読書はあくまでも自己理解を深め、より生きやすくするためのアプローチの一環です。
そのような私には、長らく特徴的な行動パターンがありました。
【繰り返していた問題】
日常的な人間関係の中で、常に自分にとって嫌なシナリオ、傷付く展開を無意識に探している。幸せを疑い、正面から受け止められない。
(例)
友達や家族、職場の人が自分に対して何か言った言葉が、たまたま意図が分かりにくいものであったとき、反射的に「自分に対してネガティブな言葉なのではないか」と想像して受け止め、その認識に囚われて自らを苦しめてしまう。(被害妄想っぽくなるものの、本人に確認して傷つくのが怖くて言えずに勝手に傷つく。)
なぜ、そのような行動をとってしまうのでしょうか?
人間の感覚としては、メリットが無ければ、そのような行動をとるはずがありません。私の想定していたメリットとは何だったのでしょうか。
【メリット】
・安心感を得たいから。
→基本的に自分にとって想像できないことが起こるのは恐怖で、内容が何であれ、想像の範囲のことが起こると安心するという感覚がある。
※それがたとえ自分が傷ついたり辛い内容の想像だったとしても、「ほら、やっぱりね」と自分の想像通りのことが起こることを確認することでせめて安心感を得たい、という歪んだ感覚が根底にある。
愛着障害を乗り越える自分なりの道筋
では、実際に私はメリットを享受できていたのでしょうか?
【現実】
・私のネガティブな想定自体が間違っていていることがあり、その場合不必要に相手のことを自分の心の中で悪者にしたり、想像の中で自分が傷つく展開を経験して嫌な思いをすることがある。
・想定が正しいか、間違っているか、相手に確認できない場合であっても、そのネガティブな想像の世界の中で自分を痛めつけて勝手に傷ついている。(自己虐待している)
→あえて自分にとって嫌な想像をして心の準備をしておくことで、現実で実際に嫌なことが起こったときに傷つくダメージを軽減しようとしているけれど、どのみち傷ついているし、気持ちも不必要に消耗していて、安心感など無く、むしろ日常的に不安感が拭えない。
じゃあ、メリットなど無いのでは?
その想定、やめても良いのでは?
でも、やめたときに、どうやって安心を得たらよいの?
安心とは
そこで改めて「安心」について考えました。
私の安心は、人から与えてもらったり、人の力を借りないと得られないものなのでしょうか。
私は私に、大丈夫だよ、と言って安心させてあげることはできないのでしょうか。
「どうせ他人は私のことを理解してくれない」と思っているのならば、そんな「私のことを理解していない、理解してくれないような人」が私を安心させることなど不可能ではないでしょうか。
自分を一番分かっている可能性が高いのは、自分ではないでしょうか。
それならば、自分を一番安心させることができる可能性が高いのは、自分自身ではないでしょうか。
「私」はどうやったら安心するのか、知っているのは「私」ではないでしょうか。
どうしたら、「安心」するのでしょうか?
私にとって「安心」とは、現実世界で怖いことが起こっても、おびやかされることのない、揺るがない何かがあること、平穏でいられることです。
では、揺るがない=変わらない、ものとは何でしょうか。
これについては、まだ答えを模索中ではありますが、今自分なりに感じているのは、それは私の心の奥深くにある「私」つまり、今ブログを書いている行為のように「自分のことを客観的に観察している私」なのではないか、と思っています。
こうやって第三者の目線で自分を観察している「私」は、ただ観察しているだけで、感情や囚われの思考に干渉されているわけでは無いような気がします。
ただ「観察者である私」は、いつでも変わらない。
つまり、揺らいだり、おびやかされたりしない。
つまり、平穏。
そう考えると私の中に、実はもう安心があるということになるのではないか、という思いに至りました。
どんなに毎日ネガティブな思い癖をしても、欲しかったメリット(安心)は結局得られていないことを自覚して、今やっと手放す時が来たのではないかと思います。(遅すぎるかな~笑)
この重要な気付きを得る過程では、たくさんの人を傷つけて、自分もたくさん傷つけてきたのかもしれません。それは愚かなことかもしれないし、心の痛むことではあるけれど、私は自分で腹落ちして納得するまで止められなかった。
そこまで苦労してずっと探してきたものだからこそ、今になってやっと分かりかけてきたこの「安心」の微かな気配を大切にしていきたいです。
そして、そんな視点を持ち始めたとき、自分の周りにいる人が、本当に自分の幸せをおびやかすような人だったのか、これまで以上に冷静に受け止め直すことができるようになってきました。
価値観の異なる自分の大切な人が、ストレートに意見や感情をぶつけてくるのは、もしかしたら「あなたと分かり合いたい、分かってほしい」という強い想いや愛情があるからで、傷つけるためではないのかもしれません。