昔々、公立高校で教師をしていた時。


僕は20代後半の生意気盛りで、怖いものなし。勘違い教師でした。当時、結構荒れていた母校に赴任して衝撃を受けました。


生徒は「こんな学校来るんじゃなかった」と思っていて、学校や教師を信じていなかったし、陰湿なイジメや暴力事件、万引きやお金を盗むために商店に忍び込むなど平気で起こっていました。


僕は単純に生徒を追いかけまわし、真剣に話し込んでいきました。涙を流して胸ぐら掴んで、みたいな昭和のやり方。今考えれば、コンプライアンス無視で、退職願を書いて机に忍ばせていました。


赴任2年目に、僕は生徒会担当を命じられました。生徒会を牛耳っていた「不良たち」と卒業式の話をしていたら「卒業式が面白くない」と言い出して、自分たちの手で卒業式を意味あるものにしたいという彼らの気持ちに「わかった。職員会議に提案する」と言ってしまったのです。もう一度言います。「言ってしまった…のです。」


僕は生徒と真剣に考えて、学校の卒業式の後に、卒業する6クラスの代表による意見発表をやりたいと職員会議で意気揚々と提案しました。僕は先生方がみんな「賛成!!」と拍手をしてくれると思っていたのです。


職員会議は紛糾しました。「不良たちが仕切っている生徒会が卒業式をメチャクチャにするつもりだ」「式典は学校の教務部主体でやるべきであって生徒が中身を決めるなどあり得ない」「お前が責任を取れるのか」と普段仲の良かった先生までも鬼のような形相で反対意見を述べてきて、多数決でも負けました。しかし僕は「どうしてもやらせてやってほしい」「生徒を信用してほしい」と言い張って引き下がりませんでした。


その後もあちこちで僕は説得に会いましたが、諦めませんでした。なんだか意地になっていたように思います。孤立する怖さも味わいました。


卒業式当日。


卒業式が恙無く終わり、来賓や保護者に退出が促され、カーテンが閉められ、生徒による「卒業式」が始まりました。生徒会が緊張しながら司会を務め、各クラスの代表(ま、いわゆる不良たち)がスポットライトの中マイクを握り、それぞれが話し始めました。声は震え、泣きながら話すものもいました。


「退学していったあいつと本当は一緒に卒業したかった」「お父さんが死んでお母さんが頑張って育ててくれたから今日の日がある」「先生方に迷惑ばかりかけて申し訳なかった」「この学校に来てよかった」どの話も心からの言葉で語られ、僕は途中から涙で何も見えませんでした。


来賓も保護者も誰一人退出せずに、生徒による「卒業式」を目撃してくださり、在校生も保護者も泣きながら拍手をしてくれました。


反対していた管理職や先生方も泣きながら、生徒の肩を抱きしめ、僕も「よかったよ」と握手を求められました。


僕は単純でした。「卒業式は生徒のためのものであってほしい」それだけを貫いていた。でも歳を重ねて、ベテランとか呼ばれる立場になって同じことができたかというと、答えは「ノー」でした。僕も学校の一部になり、儀式の内容を変更するところまで戦えませんでした。


僕は「卒業式は生徒のためのものであってほしい」という単純で当たり前の願いを放棄しました。いつのまにか「学校のため」に自分の哲学を曲げるようになっていたのだと思います。


もちろんイジメを許さず、仲間たちを励まし、生徒のために何が最善かを考えて働いていました。闘うことも辞めませんでした。でも、あの時のあの情熱を持ち続けることができなかったことを告白せざるを得ません。