僕は長く「教える」仕事をしていました。母親が入院して仕事を辞めて付き添うようになって、亡くなってから廃人になり、食っていけない現実に直面して(遅い!!)とりあえず仕事探しをしました。
人に会うのが怖かったこともあり、先ずは夜勤の工場で働こうと思い、履歴書を持ってコンビニのお弁当工場に。後で聞いたら「学校の先生してた人はつぶしがきかないって言うし、採用するつもりはなかったけど、しつこかったから」と笑い合いました。
面接はどうにかうまく行ったのですが、合否連絡が来ない。約束の1週間を超えたところで痺れを切らして電話しました。工場長から「あぁ、いつから来れる?」と言われ「明日からでも」と答えました。
制服をいただき、着用の仕方、衛生面の注意、エアシャワーの使い方etc…最初は揚げ物担当で、先輩から習ってボチボチ仕事を覚えていきました。先輩と言っても随分年下。何に対しても「はい」「ありがとうございます」を心がけて必死にくらいついて1人で夜の製造分を任せられて「よっしゃ」と頑張っていました。
そのうち先輩ととっくみあいの喧嘩をしたり、機械を壊して修理できるまで数千個の唐揚げを10個ずつ黙々と手で揚げたりしながら年の瀬を迎えました。
クリスマス前夜、正社員の皆さんにはボーナスが出る日、工場長から「少ないけどケーキでも買って」と言って、普通は出ないパートの僕にボーナスが出ました。「5,000円しか出せなくてごめんね」とトイレの前で言われた僕は「ありがとうございます」と言って泣いたのを覚えています。
いきなりのおっさんの涙にビビった工場長とは、後日笑い話に。「あん時はビックリしたよ。まさか、5,000円で泣くんだもん」
たくさん叱られ、たくさん褒めてくださり、たくさん庇ってもらい、助けてもらいました。僕もヘルプが発動されると、ラインでも切り込みでも走っていって不器用なりにお手伝いをしました。
教員としてのキャリアなんて生きていく上で役に立たないんだと思うことがたくさんありました。
人として真っ直ぐに誠実で、大声で挨拶をし、悪いときには「ごめんなさい」感謝する時は「ありがとうございます」を大声で言う。
その職場で役に立たなければ「役立たず」だと思われます。どれほどシンプルな仕事でも必死に手を抜かずやり抜くことしかないんだと思います。
夜勤明けで、昼間の人が来れないときに、工場長が「どうしようか」と悩んでいたので、「僕、連続で入ります」と言いました。工場長から「助かるよ。でも大丈夫か」と問われ、大丈夫です、と答えて仕事場に戻りました。
昼間の製造分も作り終えて、夜になって帰ろうと思っていたら「夜の分作るの僕やん!?」と気づきました。そこからまた約10時間余り。さすがに最後はヘトヘトでした。
丸一日半…帰り着いてから泥のように眠りました。昼ご飯は食べないし、夏場は50度を超える作業場で走り回り、気がつくと15キロ体重が落ち、ムキムキボディになっていました。
この大切な時間がなかったら、僕の根性は鍛えられてなかったかもしれません。幸せな時間でした。