自分の苦学自慢をして「お金がないから進学できないとか認めんぞ」と偉そうに言っていたダメな教師だった。ある時、後輩教師から「僕は苦労もしてないし、先輩のような悲惨な子ども時代もなくて。生徒にどう話せばいいでしょうか?」と言われて「しまった」と思った。


しっかりした論理を元にした理論武装、そして生徒のことを心底思う気持ちをどうやって共有するかを怠っていた。これでは育成できないと思った。


また脱線した。昔おしゃべりな僕に母親がしてくれたみたいに、上下の唇を親指と人差し指でつまんでもらいたいものだ…今頃、天国で母親は嘆いている「やれやれ」って。


どの町にも小さな本屋さんがあった。僕の暮らしていた町にも本屋さんがあり、町の人の知恵を増やし心を潤してくれていた。僕は本屋さんに行くのが好きで、本の背表紙を眺め、表紙に唸りながら探索は続く。高価なハードカバーなんかとんでもない。文庫本を数百円で買い求めていた。その時間がどれほど幸福だったことか。無限に続いてくれと祈っていた。


我が街の本屋さんは、学校教科書の注文を一手に引き受けていたので今でも生きながらえ、社屋を建て替えてそれなりに栄えている。小さな街の独占企業とも言える。


先代の頃には若者たちが、やや口に出しにくい本を買いに行くのもその本屋さんで「◯◯ちゃん、こんな本読んでいいの?」などと言われて項垂れている友だちもいた。私たちにとっては「負けられない闘いがそこにはあった」のである。


「高校の校舎の建て替えの時に、学校の床から大量の「そんな本」(鼻にかけるとフランス語みたく聞こえる…「ソンナホン」)が出てきたけど、誰のか知りませんか?」と後輩に問い詰められ、答えに窮したのは僕だけではなかろう。


僕が今住んでいる街から大型の書店が姿を消し、今はドンキホーテが入っている。開店当日はものすごい人出だったとニュースが報じていた。


街から本屋が消えるのは大きな問題だ。その街の知性の源、感性の根源、情緒の泉が失われる大変な事態なのである。学校が図書館(室)を捨てるようなものだ。どんな生徒に育って欲しいか、そのためにどれだけの資本をそこに投資する気があるかが問われている。私は図書館が機能していない学校を認めないし、それがわからない校長はダメだと思っていた。


ネットで手に入るから…という人がいるが、それはそれで便利になったと思っている。しかし、本屋でウロウロしながら、本を手にとってその手触り込みで本を買う…いや、自宅の本棚にお招きするかどうか決める経験こそ重要であるのではないか。もちろんお招きできるお金が財布にあるかどうかが問題だったりする。それ込みで僕たちは本屋さんという異世界に立ち止まる。その幸せを噛み締める。


それにしても、本屋さんに行くと決まってトイレに行きたくなる。みなさん、そんな経験ありません?僕は必ず生理現象に襲われるので、トイレの有無を確認するのが常である。何が僕をトイレに誘うのだろうか?いまだに謎である。