大上段に構えたタイトルに震えます。なら書くなよと言われそうですが、今、僕は自分の立ち位置で言えることをまとめてみたいと思います。


「創作の現場においてA.I. がどんな風に活用され、どこまで許容されるか」というテーマです。


すでに今年2月に芥川賞を受賞した九段理江さんは受賞作の「東京都同情塔」を書くにあたって5%です生成A.I. を「駆使して書いた」と記者会見でも述べておられます。


僕はこの発言に動揺しました。「ついに来たか…」という意味で、です。5%という数字の信ぴょう性とチェック機能、そのチェックを行うのもまたA.I.なのかと思ったりします(実際には検知は不可能のようだが…)。なんだか皮肉な追いかけっこ。互いの尾に噛みついてぐるぐる回る二頭の龍のように。


この問題については、これから少しずつ書いていこうかと思っていますが、身の回りで以前だったら聞いたことのない話を耳にするようになりました。


僕が勤めている会社のグループ会社の有能な若手たちを集めて、あるプロジェクトを動かしている時に「今回の企画書や企画内容は、ChatGPTを使って作りました」と言われて、みんなが「とうとう来たか?」と騒ぎました。彼は「使ってみたらわかりますけど、思ったよりすごくて驚きますよ」と付け加えました。


実は、僕もある実験をしてきました。ChatGPTに向かってある質問をしました。


「Miles Davis の『Kind of blue』の中の「Blue in Green 』は、ピアノのBill Evansの作曲ですよね」


「ハードビバップの定義とその歴史について教えてください」


この2つの問への回答は極めて明確で深いものでした。正確で裏付けがしっかりしているようにも感じました。


創作に関して生成A.I. を使用することは、創作者にとっては敗北だと思ってたましたが、これはA.I. に対する無知が言わしめたことだと思われます。


「東京都同情塔」の中でA.I. を描いた九段理江さんと「生成AIで世界はこう変わる」の著者である今井翔太さんの対談を読むと自分の浅さがよく分かりました。


これからまだまだA.I. の創作へのコミットの成果がもたらされ、大いに議論が進むことでしょう。俳句や短歌の中の言葉をA.I.が選んだりするとしたら、果たしてその句は作者のものなのでしょうか?A.I. が成長しつつある現段階でも「すごい」と言われるにもかかわらず、進化を遂げていくその先にどのような役割を果たすようになるかは想像を超えるものだと思います。


単純バカな僕は、自分の能力と経験で戦い続けます。それで負けるならそれまでです。もっと言うと、勝てる確率は低い。ほぼ0%かもしれない。でも、争(あらが)っていきたい。不完全な人間が生み出す不完全なものを不完全な人間が楽しむ。批判や修正の指摘は当然。言い訳ではない限界や不完全さを楽しんでいく。A.I. が提供するものが、問いを投げかける人間の創造性に依存しているのが現状だとしても、そのうちその制約が外れる日が来ると思います。そうなった時に彼らは何を提供してくれるのか?


「フロイトの心理学理論にしっかり裏付けされ、ボルヘスのように迷宮的でエンターテイメント要素を散りばめた、哲学的な小説を書いてくれ」


こんな依頼に、学習途上のA.I. は、どれほどの時間かで回答を出してくれるだろう。そして時間の経過と共により良きサンプルを届けてくれる。僕たちはそんな知能とどう向き合い、どう許容するか。それぞれが答えを用意する覚悟が求められる時代が来るのではないかと思っています。