神野美穂さんからの電話の直後に、田辺教頭に状況を簡単に説明して了解を得て、吉岡先生から神野さんの住所と携帯番号を教えてもらった。


市街地にあるビルで迷うはずはないと吉岡先生に言われたが、到着してみてなるほどと思った。近くのコインパーキングに車を停めて、マンション前に立ってビルを見上げた。11階建ての最上階が神野家の住まいになっている。


エレベーターで11階へ向かい、そこから非常階段のドアを開けて屋上に出た。神野さんはすでに屋上で待っていた。ドアの軋んだ音がしたはずなのに、神野さんはこちらに一瞥もくれずに「先生、ありがとう」と言った。


神野さんは、真っ黒なワンピースを身に纏っていてその脇には小さな陶器があり、白い煙が筋を描いて空に向かっていた。


「うちはカトリックなの。おじいちゃんのためにお香を炊いてる。匂いは?」

「いい匂いですよ。気にしなくていい」

「お正月にドンキで買った福袋の底にへばりついてたお香。捨てなくてよかった」


神野さんは自虐的に笑った。その笑いの中に初めて私は彼女の掠(かす)れた悲しみを感じ取って、少しホッとした。彼女は学校の敷地の中やそこで営まれるコミュニティの相互伝達にかなりの緊張感を感じていたのだろう。鎧を下ろす場所で話したかったんだろうと勝手に思った。


「先生、おじいちゃんは可哀想なのかな?」

「自ら死を選ばれたから?」

神野さんはゆっくりうなづいた。

「彼は敬虔なカトリック信者だった。日曜日のミサを欠かしたことはない。おばあちゃんが亡くなった日も教会にいたくらいだから。でも最後に罪人になってしまった」

「ツミビト…強い言葉だね」

「おじいちゃん自身も自分をそう呼んでた」

「人は皆、例外なく罪人」

「今上先生、おじいちゃんのために一緒にお祈りをしてくれませんか?」

「もちろん。どうすればいい?」


神野さんは少し小さめの燭台の蝋燭に火を灯して私に持たせた。


「お祈りの言葉はいらない。目を閉じて、おじいちゃんの罪が清められることを願ってくれますか?」

「わかった」

私は彼女の導きの通りに目を閉じた。慣れない儀式に戸惑いながら、神野さんの「目を開けて」の合図を待った。しかしその合図はなかなか発せられなかった。痺れを切らした私は「神野さん、目を開けるよ」と言って目を開けた。


神野さんは、屋上の縁に腰を下ろして、まっすぐ前を向いていた。そして私を振り返らずに言った。


風があったら、かき消していただろう言葉を、彼女は精一杯の力で伝えた。


「あの日おじいちゃんは、ここにこんなふうに座っていたの」