「フェアじゃないのは私の方だ」という神野さんの言葉が私の頭の中心に陣取っていた。
彼女の「思い込み」は彼女だけのもので、外野がとやかく言ったからといって消えるものではない。そのことをわかった上で、私は「フェアではない」理屈を乱暴に神野さんにぶつけ、それを謝罪した。
本当は怒って欲しかった。悲しみと罪悪感ではなく怒りの感情でこの部屋を飛び出してくれてもよかった。
「証明なんて必要なの?私が『死んで欲しい』って言った。そしておじいちゃんはビルから飛びおりて死んだ。それだけで私には十分。先生は何も分かっていない」彼女に期待したのはそんな反応だった。しかし彼女は賢くも私の意図を見抜いて、こちらの煽りには乗ってこなかった。そして言った。
「フェアじゃないのは私の方だ」
次の日の朝、私はチャウチャウの授業の空き時間を見計らって、彼の机に向かった。頭を抱えて項垂れている吉岡先生に「神野さんは来てる?」と尋ねてみた。
「いや、それが、体調が悪いとかで今日は休むとお母さんから連絡があって…どうしたらええんですかね?押しかけて行って、強引にでも引っ張って来た方が…」吉岡先生はそう言った。私はもう少しで「チャウチャウ」と言いそうになったが、青白い彼の顔が目の前に迫ってきて「それはやめておこう。様子見でいいんじゃないかな。どこかの親のように、忌引を初七日まで伸ばして欲しいとか要求しているわけでもないんだから」
モンペア(モンスターペアレンツ)とまでは言わないが、最近は初七日とか四十九日とかの行事のたびに「推薦に不利になるから休ませたくない。忌引にしろ」と電話をしてくる親がいる。それこそやれやれだ。
「吉岡先生、面談の内容は少し整理してからの報告でいい?心配だろうけど申し訳ない」
私がそう尋ねると、吉岡先生は「構いません。緊急事態とかじゃないんでしょ」と言った。私は昨日の面談の内容を報告書にまとめている最中だが、吉岡先生自身が報告内容をどう受け止めて、その情報をどう扱うのかに確信が持てなかったので、混乱を避ける意味でも、じっくり話せるタイミングを待つことにした。
前日のカウンセリングルームでの神野さんの反応を反芻しながら、1日待つしかないと自分に言い聞かせていた。
夕方になって相談室の内線の呼び出し音が鳴った。受話器を取ると事務長だった。
「今上先生、よかった。まだ帰っておられなかったんですね。」
「面談の内容をまとめていて、まだ帰れなくて…」
「今、保護者の方から外線が入っていまして、代わっていただけますか」
「はい、お願いします」
電話が切り替わった。「もしもし…今上先生…」電話をかけてきたのは、神野美穂本人だった。声が落ち着いているから事務長が勘違いしたのだろう。
「神野さん?体調はどう?」
「はい、大丈夫です。朝、起きれないほど頭痛がひどくて…ご心配をおかけしました」
「どうかした?」
「今上先生、今日会ってお話できませんか?」
「もちろん大丈夫だけど。学校に来る?」
「わがままを言ってすみませんけど、できればうちに来てもらえますか?」
私は少し迷った。保護者の方が同席するのであれば問題はないが、校外で女子生徒と2人きりになるのは避けないといけない。しかし昨日の今日なので、彼女の現在の状況が気にならないはずがないし、何らかの危惧される状況が想定されないとも限らないように思えた。私は自己防衛のためにも教頭に一報入れることにして返事をした。
「わかりました。伺います。チャウチャウが一緒の方がいい?」
彼女は一瞬の間の後に声を出して笑った。
「今上先生、おもしろい。意外ですけど最高です。でもうちの家ペット持ち込み禁止なので、連れてこないで欲しいな」
今度は私が笑う番だった。賢い切り返しとユーモアのセンス。最初から吉岡先生を連れて行く気はなかったが、彼女の家への訪問はオフィシャルなものだと伝えたかった。
「私の住所は名簿で調べたらわかりますか?」
「大丈夫だよ。ピンポン鳴らせばいいかな?」
「家には行かずに、直接、屋上に来てください」
一瞬頭がクラっとした。屋上?神野さんのお祖父様が飛び降りた場所…どういうことだ?しかし選択の余地はない。今キャスティングボードを握っているのは私ではない、神野美穂だ。
「わかりました。30分後くらいには到着します」
「理解してくれてありがとうございます。お待ちしています」
今度こそ本物のやれやれだ。