僕は昔は左側にいました。教師時代があるから…それはそうだよね…日教組だとか、社民党(社会党)だとか、右だ左だとか。自分が寄って立つ主張こそが生徒や仲間たちを守り、平和を守り、弱者である市民を守るためのものだと思っていたのです。権力の側に怒り、管理する側に対して声を上げ、時には荒げ、何かを変えなきゃ、このままではダメだ。与党自民党の決めたことはダメだと証明するための理論武装もしていました。学生運動や労働運動に遅れてきた青年だった僕は、あれが「敵」であり、闘う相手は「あの辺」だと教わりました。それは下手をすると部活動のようでもありました。僕たちは仲間を得て、敵を得て、自分たちの時間や給料の一部をつぎ込んで闘いに明け暮れる日々に正当性を与えて燃えていたのです。


様々な社会問題に対峙しても、考えなくても正しい主張や立ち位置がわかっていました。僕はある時にこのことの危険性に気付くことになります。「左」もしくは「マイルドな左」にいることで、大した根拠の追求をしなくても正解(と言えそうな)ものに辿り着けるように思えていました。


このことの危険性がわかるでしょうか?


そうです。考える力が弱ってしまうのです。みんなの考えが1ミリもズレることなく重なり合うことなんてあるはずがないのです。自分で考え、自分で調べ、自分で闘う武器を身につけて、理論武装をしながら常に修正をする意欲を持ち続けなければいけないのです。「あの人たち、あのグループが言っているから正しい」なんて通用しないし、そんな主張は全く説得力がないのです。怖いのは「あの人たち」はいつでも「この人たち」にすり替わるのです。宗教にハマるのと似ていませんか?


「マイルド左翼」の立場をとることで、あの人が言っていることは正しそうに思える。


もうお分かりですね。だから、学校で起こる問題に間違った判断が横行するのです。イジメだと思っていませんでした。イジメとは定義できません。は?傷ついている生徒がいて、傷つけてしまっている間違った生徒がいる。前者を理屈抜きに守り、後者が自分の行為を恥じて修正するまで指導する。教師の仕事、学校の存在意義は、「生徒の安全を確保し教育を施す」ことです。イジメの定義をしたり、学校の体裁を守ったりすることではないのです。


真面目で一生懸命なはずの先生たちが集団で間違えるのがなぜか?もうお分かりではないでしょうか?


僕は生徒たちに言っていました。


「宙ぶらりんにする勇気を持とう」


一方的に正しくみえる主張は疑おう。自分をどこかに固定せずにしっかりと調べて、徹底的に話し合って自分を修正していこう。自分の間違いを認めて修正できることは素晴らしいことです。


「宙ぶらりんで何が悪いのですか?」できるだけフットワークを制約されずに、立ち位置や所属しているところに拘らずに、正しいのか間違っているのかではなく、どこが正しくてどこが間違っているのかを見極めませんか?冷静に、礼儀正しく、リスペクトを持って。許せないことは許せないと言いましょう。


「左翼?右翼?宙ぶらりんです!!」


生徒に創造的であることを教えて、当事者意識を持つ大人に育てようとするなら、学校の先生たちこそ「宙ぶらりんでいる勇気を持って」生徒たちと一緒に揺れながら、自分でも正解を探る姿勢を生徒に見せてあげていい。「俺も揺れてる。私も決まってない。一緒に揺れていいよ。一緒に正しさを探り当てよう。」(生徒さんは信用されてる、受け入れられてる、と家庭でも学校でも感じていられることが大事なんだと思います。)


「サンクチュアリ」という漫画がありました。この社会をよくするために政治家を目指す若者と法を外れた裏社会でのしあがって政治を目指す親友を助けようとする若者の物語です。素晴らしい政治家の皆さんはきっとこんな想いを持って政治家を目指したのだろうなと思うのです。社会をよくするために必死で汗をかこうと思っていた人たちのはずが、弱者を痛めつける政策しか打てなくなり、お金がないと政治活動ができないと言い放つ。これだけメディアが進化・多様化している中で、お金を使わずに自分の想いを伝えている人は山ほどいます。どうか、市民の生活を見てください。幼い頃あなたを助けてくれたおじさんやおばさんたちが首を括らねばならない社会になろうとしています。ちゃんと市民の生活を見つめてください。当選して涙を流したあの日に、バッヂをつけて初めて国会を訪れたあの日に今一度立ち返ってください。政治家は何をしにそこにいるのか思い出してください。僕は真剣です。


だからこそ「宙ぶらりんになる勇気」を持ちませんか?