僕は自分を冷たい人間なんだと思ってきました。父が死んだ時も、母が死んだ時も、直後に泣いていない僕をみて、親戚の人は陰口を言ったり、僕を直接叱責する人もいました。「お母さんの気持ちを考えたの?自分の気持ちばっかり押し付けてたんじゃない?」ほぼ初めて会った親戚の人だったので、僕が仕事を休んで母親をあちこちの病院に連れて行っていたことも、母がアルバイトしてたスナックに行って母親の好きな美空ひばりを歌って「いまいちやなぁ」と言われて、笑い合ったことも知らない人にそんな言い方されなくても…と思った。でも僕の中の母親に対する罪悪感の深さは、僕に反論を許さなかった。


僕は自分の「冷たさ」の理由をあちこちに求めた。生まれて3歳まで母と暮らしてなかったことで愛着形成に問題があったんじゃないか。両親との暮らしの中で父と母の間に何の愛情も感じられなかったことで家族愛の何であるかをわからなかったからではないか?父親が父親らしい交流を僕とはしなかったからではないか?そのどれもが絡み合って僕を冷血人間にしてしまったのではないかと思っています。


「無防備になんの武器も持たず、ほぼ裸に近い状態で相手を信用して突っ込む…」というのも人の気持ちが理解できないことからきているのかもしれないと思っています。


熊本県の私立学校に勤務している時に、当時の教頭先生と数学の若手教師と僕の3人で毎月食事会をしていた。学校をより良い学校にしよう、進学成績をもっと上げようと侃侃諤諤の議論と情報交換をしていた。こういう食事会(飲み会)が僕は苦手で、たいてい飲み会の前は「行きたくない病」にやられてジタバタする。しかしこの会は料理が美味しいこともあって楽しみにしていた。その後退職して職場を転々としたこともあり、なかなか会うことも叶わなかったが、教頭先生が癌で亡くなったと聞き、今の会社の社長に相談したら「恩義のある方です。行きなさい。」と言ってくださったので、行かせてもらった。ご葬儀に参列し、校長先生や何人かの懐かしい先生方にご挨拶し、まだ子どもさんが小さかったので、残された奥様が大変だろうなと思いながら言葉を交わして高速に乗って戻った。頑強な空手家でもあり、物理教師としても極めて優れた指導者だった。棺桶の中の痩せ細った彼は今にも熱く学校の未来を語り出しそうだった。あまりにも早すぎる死だった。


僕は、別な用事もあったので、ある友人に電話をして、ご葬儀に出かけたことやその時の様子、どんなご縁だったかを伝えた。信頼している友人であったせいか、かなり突っ込んだ僕自身の複雑な感情も吐露したように思う。電話を切ろうとした時にふいに言われた。

「大丈夫ですか?」

「何がですか?」

「え…大丈夫ですよ。」

「大丈夫なはずがありません。我慢しなくていいんですよ。」

最初は何を言われているのかまったくわからなかった。彼女がカウンセラーであることをふと思い出したくらいだった。


僕は急に自分の内側から外側に向かって激しく溢れくる力を感じた。その力は僕の感情を塞いでいた壁を打ち壊して僕の感情を外へと導いた。僕は大丈夫なんかじゃない。とてつもなく悲しい。あの頃のあの楽しい日々は間違いなく幸福な思い出として僕のうちに宿っている。自分の人生の一部として僕の自分史の一部を形成している。僕は気づいたら声をあげて泣いていた。口を押さえないとその声は近所にまで届きそうだった。受話器の向こうの友人は黙ってそのまま僕が落ち着くまで待ってくれていた。僕は礼を言って、自分が自分の感情に気づいてなかったどころか、自分で蓋をしていたことを話した。友人はそのことには多くをコメントせずに「少しスッキリしましたか?」と僕に尋ねた。「はい。」と僕は答えてお礼を述べた。


僕は自分を冷たい人間だと考えている。自分がどこかで感情に蓋をすることを覚えたのか、そうすることで自分を守ってきたのかわからない。でも自分のことを自分ではわからないのかもしれないと考える時もある。それにしても「冷たい人間」ってなんなんだ…ますますわからなくなってきた。