僕は文章を書くのが好きです。そりゃあまぁ、そうでなきゃブログとか始めませんよね。なんだか、自分の中に溜まった「言葉の沈殿物」からよっこらしょっとフジツボだったり、藻だったりがしがみついた汚言葉を掬い上げて、少し体裁を整えて、このプラットフォームに並べてみます。受け取り手の皆さんには「触れてみて欲しいなぁ〜ケガはしませからね〜何かふと共感や反発できるものがあれば幸いです、というスタンスなのです。恐る恐る、でも大胆に差し出す言葉は、自分の内奥にあるモノを表していたり、隠していたり、関係なかったりします。


表現欲求があるから文章を書きます。誰にも読まれないことを前提に文章を書くことは、まずあり得ないと僕は思っています。ブログなんかは何人が読みに来てくれたかな?イイネをつけてくれたかな?とそれが気になって分析を調べたりします。そのことはみっともないことでもなんでもないと思います。手を広げるのはその手を誰かに掴んで欲しいから。誰かが伸ばした手とぶつかったり、繋ぎあったりしたいから。素直にそう言える、そう思えることが大事だと思う今日この頃です。


誰かを傷つけるために吐き出された言葉は、返す刀で自分をも傷つけてしまう。傷ついた相手がどうなるのかが想像できないし、そうすることで腐っていく自分の内奥が見えてこない。こんな恐ろしいことはないのです。言葉は時として凶器になりうるし、また時としてヒトを生かし、励まし、背中を押して成長させることもできる。幸せにすることもできる。


言霊(コトダマ)という概念がある。言葉が持つと考えられる霊力。口にするとそれが実現へと向かってしまう。言葉の力ってあると思う。

「ねぇ、僕は君が…」

「言葉にしたらダメ」

「え?どういうこと?」

「言葉にしたら、本当になってしまう。」

飲み込んでしまった「好き」は、次の日に彼女の方から告げられた。「な、何がしたかったんだろう」


ポエジーについては「詩情」と訳せます。以前オクタビオ・パスの詩論を紹介した時に触れました。日常の言葉、具体的なモノを指し説明する言葉、ありふれた言葉がポエジーを獲得するのは詩作の現場でしょうか?中島みゆきさんの歌の歌詞に僕たちはマジックを見る。「米を買う」などという言葉が歌詞になり、切なく胸を叩く。恋愛から程遠い言葉が恋情を滲ませたり、心の輪郭をなどる。言霊が本当に存在し、大気にその霊力を放って相手に届けてくれるなら「愛していると言ってくれ」なんて小っ恥ずかしくとも言ってみる価値はあるのかもしれませんね。