僕の尊敬する演劇の師匠がいて、もう定年を迎えて大人しく郷里の素敵なお家に引きこもっているんだけど、「俺の最後の作品になるような脚本を書きなさい。」と言われてからなかなか書けずにいる。共に舞台を踏ませていただいたのは「熱海殺人事件」だった。長身で颯爽としている彼はまさに木村伝兵衛部長刑事であり、チビでコロコロしている僕は、犯人大山金太郎しかないという配役だった。通算3度、僕は木村伝兵衛に花束で何度も殴られて舞台下に落ちたことになる。でも幸せな時間だった。心地よい瞬間は体の隅々に染み渡り、確実に勘違いを起こさせる。僕の場合は自己評価が基本的に低いのでその「勘違い」には至らなかった。


さて、劇中に音楽を使うことについては、前にトゥーランドットに行きついた話を書いたが、ここにはこれ!!という音楽があったりする。脚本を書く立場の人間からすると、どこでどの音楽をセリフの邪魔にならないように流すのかは、脚本の中身と同じくらい重要な問題なのだ。当時は今みたいに配信というシステムがなかったので、相当な音楽を買って自分で選曲した結果だけをみんなに聞かせて「これで行く」と告げていた。練習やリハなどで音楽のタイミングが少しでもズレるとダメ出しをしてやり直す作業が続くこともある。しかし、僕はセンスのいいスタッフに恵まれていた。「ここ!」というタイミングとボリュームで流れてくる音はその場面をブラッシュアップしてくれる。台詞の邪魔をしないという制約もあるが、時として台詞をかき消して欲しいということもあった。必死に叫ぶ役者の表情と筋肉の緊張を際立たせるために、音楽によって余分な要素を排除できる。


僕は坂本九さんの「上を向いて歩こう」が大好きで大好きで、バンドマンを目指して東京に行って、夢破れて帰ってきた友人の結婚式の二次会で、新郎のギターに合わせて、この歌を歌わせてもらった。永六輔さんと中村八大さんの作られたおそらくは日本一の曲だと僕は思っている。


老人ホームでの悲喜交々を描いた脚本を書いた時にこの老人ホームのみんなが「辛さを想像しながら適度な距離感で互いに支え合う」愚かで愛おしい人々の群像劇にしたくて、最初と最後に歌わせる曲としてこの曲を使わせてもらった。明るいメロディに思えて実は切なく沁みてくる曲に乗せて「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」と「生き抜くための処世術」をこんなにさらっと少しユーモラスにも響く歌詞で伝えるなんて衝撃だった。この歌は日本人の心に刺さる歌なんだ、と思う。


埋もれてる名演の発掘としてご紹介させて欲しい。実は、1993年(30年前!!)に発表された、山根麻衣さん(ボーカル)と窪田晴男さん(ギター)の2人だけのロックバンドの演奏で「上を向いて歩こう」を楽しめます。おそらくは最高のカバーです。アルバムは「Yamane,Mai & Kubota Haruo UNIT」です。ストーンズ、スティービー・ワンダー、ボブ・マーリィ、スタイリスティックスに混じって、坂本九です。今はYouTubeで聞けるかな?


チャカと昆虫採集さんの「うたの引力実験室」というアルバムの中で紹介されている渋めの選曲のカバーアルバムも聞いて欲しいです。堺正章さんの「街の灯」は日本の歌謡史の中のナンバーワンじゃないかと僕は思っています。これもある芝居のダンスシーンで使いました。おっと、僕の演劇の師匠は「いい芝居をしてる時に音楽は邪魔になる。」と言っておられて、僕も役者さんがしゃべっている時は極力音を被せないようにしてきました。役者さんから「音、邪魔です。」と言われたいなぁとも思っています。マチャアキの「さらば、恋人」もいいけど、僕は「街の灯」の方が好きかな。それは「見上げてごらん夜の星を」よりも「上を向いて歩こう」が好きなのと同じ心持ちかもしれない。