(写真は父親の形見。壊れてた時計を修理してベルトを替えました。父があやしいおじさんから中古で買った時計。)


貧しかったので、服を買いに行った記憶がない。父親は洋服の仕立て屋で母はその弟子だった。20歳離れた2人は駆け落ちをして、田舎町で洋服の仕立て屋を開いた。ぶら下がりの時代に突入していて、コスト高の仕立て屋に客は来なかった。補正の500円では生活ができなかった。


大人になって、その郷里で働くようになったある日コンビニのおじさんが僕を見つけて「ちょっと待ってて」と言われて、奥からジャケットを持ってきてこんな話を始めた。「お父さんに仕立ててもらった上着なんだ。もう40年経つけど少しもいたんでなくて、今でもパリッと着れるんだよね。すごい職人さんだったよね。」僕は丁寧にお礼を言って店を出て暮れまどう街を後にした。少しも働かず、気に入った人にはタダで仕立てるような父だった。そりゃ家族は路頭に迷います。若い頃は複雑な感情を抱いていたが、今父親をどう思うかと尋ねられたら、大好きだと答えるだろう。父の技術はあちこちで褒めてもらう。誇らしい限りだ。


しかし、何せ自分で服を買ったりできなかったのでオジサンファッションで生きてきた歴史が長い。若いのにヘンテコな親父シャツにスラックスだったから、モテるわけもなかった。大学生になってアルバイトを始めたら、少しずつファッションに興味を持ち始めて、当時はやっていたIVYファッションに憧れて、ボタンダウンのオックスフォード、ポロシャツ、綿パン、コインローファー、サマーセーター、3つボタンの段返りスーツ。厳格なルールがあって外れていると指摘される。神戸の元町高架下商店街で輸入物のポロのグリーンのボタンダウンを初めて買って何十年も着ていた。お馴染みのロゴマークが手刺繍だったと記憶している。


ヨーロピアンやDCブランドが席巻し始めるまでは僕はアイビーファッションの申し子のような格好を貫いていた。背も高くないから比較的似合っていると自負していた。それこそ毎月メンズ・クラブを購入して隅から隅まで読み漁っていた。ある時、紺色の半袖のサマーセーターに綿の半ズボンに白靴下でローファーを履いて学校に行ったら、友人たちが僕の周りに集まってきて「お前大丈夫か?雑誌から出てきたような着こなしして、何がしたいねん?」とイジられた。今考えたら迷走も迷走…友人は気づいていた。こいつ、着せられてる、と。ファッション雑誌の戦略にここまでハマる少年がいるんだ!!今考えればゾッとする自意識過剰だった。