デビッド・ルヴォーの名前に初めて触れたのは、NHKの教育テレビで放送されたイプセンの芝居だった。


ヘンリク・イプセンは、ノルウェーの劇作家・詩人であり、世界で最も重要な劇作家の1人とされている。日本の新劇運動の折にも、イプセンの「人形の家」のノラを新しい時代の象徴として上演された。


当時、日本はロシア演劇の影響を受けて新劇を上演していた。築地小劇場で行われたイプセンやゴーリキーの上演は、ロシアの演劇の影響を強く受けていた。このことが日本の新劇の進化を止めてしまったのではないか、と邪推する。


ルヴォーは、1世紀以上前の作品に、現代人が抱えるセクシュアリティの問題に通底するテーマを見ていた。そしてそれを古めかしくない新しい形で上演することで、現代の劇場に足を運ぶ客たちが囚われている亡霊を思い起こさせようとした。「エリーダ〜海の婦人」「ヘッダー・ガブラー」その両方に描かれる、複雑な女性性の苦悶と暴発。旧態然とした男たちの幼稚な慣習と思考は、女をいろんな形で搾取することしか考えていない。そのために女を家という一番恐ろしい監獄に閉じ込めておこうとする。女は男の頭の悪い在り方に愛想を尽かし、復讐を始める。変化に対応できていた女と変化を怖がり、従来通りにしがみつこうとする男は対比的に描かれるが、女はそう簡単に勝利できないのだということも描かれる。


ハロルド・ピンターの「背信」に描かれる妻は、夫の愚かさに絶望している。時間軸を逆にしたこの試みは夫と妻の関係がどこで破綻したのかを問いかける。僕はそもそもの最初から男は女に惨敗していると考えている。このお芝居はその構成において、残酷にその事実を抉り出して提示する。


120年以上前の戯曲の上演をテレビで観るなんて考えてもいなかった。たまたま僕がインフルエンザで仕事を休んでいる時に仕方なく流していた教育テレビのこの上演の録画に完全にやられた。僕は起き上がってこの芝居を観ながら、台詞はやや古めかしいと感じたものの、そんなことはどうでも良かった。ここには明確な演出意図が存在していた。そしてそれは、テレビ画面越しに僕をノックアウトした。その時に初めて「演出」という仕事の重要性を知り、それまでの愚かさを恥じた。


日本の名だたる俳優さんたち、佐藤オリエ、麻実れい、大竹しのぶ、堤真一、内野聖陽、宮沢りえ、海外ではオーランド・ブルーム、ジェシカ・ラング、ジュリエット・ピノシュ、アントニオ・バンデラスが彼と仕事をすることを切望し、一緒に作品を作り上げている。(敬称略)


最近は香取慎吾さんと仕事をしていた記事を読んだ。その人となりをインタビューで引っ張り出した「盗まれたリアル」(長谷部浩著)を読むことをお勧めする。