僕が高校に入学した直後、僕の家(借家)の前にいた不良のお兄ちゃんが僕を呼びつけて「これを読め」と言って渡されたのが村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」だった。表紙は美大出身の龍さんが描いたものだった。官能的であり、可愛らしさもあった。小説の内容は、16歳の少年には刺激が強すぎるものだった。酒と薬と乱交。基地の街福生に生きる若者たちの出口のない青春を描いたこの小説は、読む者に「吐瀉物の匂い」「腐ったものの匂い」を呼び起こさせる装置を備えていた。そして、その装置を効果的に使い、読者を不愉快にさせていく。ある事件が起きて、そこにいた連中の誰もが悲しみとどこへも辿り着けない焦りを感じていたのだと思う。


ある時代のある人々の置かれたカオスを描いた小説だと言うことだと思うが、基地の街だと言う特殊性が作り出す無軌道な生活パターンが描かれているに過ぎない。確かに新しい表現やラリってる時の感覚のぶっ飛んだ描写は魅力的だったのだが、学生運動に傾倒する若者の立脚点は脆弱なもので、まったく理解できない。そこが単なる風俗として、ヒッピー文化におけるファッションに過ぎないので、軽い。唯一、最後の「限りなく透明に近いブルー」が現実のどうしようもなさを浄化する装置になっている。かく言う僕も大学生の時、工場勤務の時、何百回も早朝の空を見上げた。過剰な自我が求めてやまなかったのだろう。いまだに一度もお目にかかっていないが。


いずれにしても、この作品が第75回芥川賞を受賞したことは、日本文学にとって新しい時代の幕開けになったのかもしれない。その後、「海の向こうで戦争が始まる」「コインロッカー・ベイビーズ」などの龍さんの作品を読んで、むしろこちらの作品が突きつけたものは大きいと思われる。龍さん自身の学生運動を描いた「69」は、遅れて来た少年である僕には羨望の的だった。


カンブリア宮殿に出ている龍さんがアルマーニのスーツかなんか着て、企業の魅力や成功についてコメントしているのを見ると、少し違和感を覚えてしまう。もちろん勝手なイメージの押し付けなんだけどね。


僕は一時期自分のペンネームをジョナサン・リビングストンとしていたが、リチャード・バックさんの「かもめのジョナサン」(訳 五木寛之)の大ファンだった。リチャード・バックの「イリュージョン」を訳したのが、村上龍さんだった。やや自意識過剰な飛行野郎がカモメなら憧れるが、人だ神だと言われると少し引いた。あとがきも龍さんらしくて、良かった。


死ぬまでに龍さんが描いた「あのブルー」を拝みたいと思っている。16歳で探し始めたブルー。どんな色なんだろうか?