大学生の頃、村上龍さんのファンだった僕は、北千里でバスを待っている時間に本屋に立ち寄るのが常だった。梅田の寿司屋でアルバイトをしていたのだが、阪急で北千里(当時は終点だった)まで上って、そこからバスで大学の寮のある粟生間谷まで戻るルートだった。30分程度の乗車時間に読む本を探すのが楽しみだった。


村上龍さんの新作は無く、おっ!!と思って間違って手にしたのが村上春樹さんの「風の歌を聴け」だった。「龍じゃないのか…」とガッカリしながらパラパラめくってみて、文字が多くない、スペース多め、変なTシャツのイラストがある…なんだこれと思ったが買うことにした。


もちろん一気に読めてしまった。バスの中、帰ってからの寮の部屋、読了。しかし何かが僕を惹きつけてやまなかった。最初に出てきた不遇の作家の逸話が心を引っ掻き、一人称単数の「僕」の周囲へのコミットのしなさ加減に共感し(僕もどちらかといえば閉鎖的なので)、歪なまでに数字にこだわる部分が病みつきになり、「僕」の感情が見事なまでに韜晦され、でもだからこそ、物足りなく感じるのでは無く、どうしようもない登場人物や共感できない人々にさえ、こちらが勝手に与える体温の分、僕たちがコミットしていることに気づく。本の中の「僕」の感情に出くわすのは、「羊をめぐる冒険」のラストだろう。(川本三郎さんが号泣したんだから、僕が号泣してもいいよね。)


不思議なんだけど、吸ったタバコの数や飲んだビールの量、性行為の回数が具体的に数値化されて書かれれば書かれるほど、具体的にはならずにその行為が抽象化される感覚を持った。この効果は大きい。ある種こだわりを特性に持つ主人公なのかと今になって思うが、それは邪推だろうな。


実は映画化されていて驚いた作品が「土の中の彼女の小さな犬」(短編集「中国行きのスロウボート」収録。)である。僕が一番好きな作品はこれですと言うと、僕の何かが分析されそうで怖いなぁ。でも事実だから仕方ない。そこには、命の残酷と注いだ愛情の分傷つく個の悲しみが描かれている。ヒトは自分が自分を限定して、檻の中に閉じ込め、他者から刺されていると錯覚するが、実は自分で自分を刺しているのだと思い知る。ここでは主人公の「僕」はつい「いい気になって」彼女が暴かれたくなかった秘密を探偵よろしく言い当ててしまう。この部分は上質な推理小説のスタイルをとっている。


世界にどれほどのハルキストがいるのか分からないが、僕はその中の1人だと公言しよう。ジャズミュージシャンでは、ビル・エヴァンスだし、好きな映画は「いま会いに行きます」だし、好きな作家は村上春樹だし、ビートルズとサイモンとガーファンクルがマストアイテムだし…さぁどこからでもかかって来なさい…嘘です。か弱い僕です。