熱海殺人事件は、ロンゲストスプリングのシリーズで完結したように思う。つかさんはその後、「飛龍伝」、「幕末純情伝」などの成果を挙げた。しかし流石に熱海を超える作品は生まれていない。長与千種を主演に迎えた「リング・リング・リング」は、惨憺たる出来だった。


つかさんは、口立てで芝居を構成し、毎日公演後の稽古で台詞が変わるという手法で芝居に命を吹き込む天才だった。つかさんの稽古そのものが、毎回新しい創作だったし、そのscrap & buildの姿勢こそが、台詞を立ち上がらせ、観客の脆弱な思想や価値観を思い知らせる装置だったとも言えるだろう。場面場面にこだわった作劇であっても、大きなうねりを生み、最後のカタルシスへ観客を連れていく力があった。しかし「リング」の頃には、つかさんにしか作れない台詞とサディスティックな登場人物の背景を暴いて叙情を生むシステムが停滞し、目新しさが失せて、うねりを生むところまで至らなかったということか…


つかさんが福岡にワークショップに来られて、客席から希望者を募って舞台に上げて、つかさんに与えられた台詞を言うという夢のような機会がそこにあった。僕は勇気がなかったので、手を挙げられなかった。僕の数少ない後悔の一つである。


あの時舞台に上がっていたら…(妄想)つかさんの目に止まる→職を捨てて東京へ→北区つかこうへい劇団へ→熱海の犯人大山金太郎の役をゲット…なんてな…


新劇から客が離れ、力を失いつつあった時代。


つかこうへいは、その唯一無二な作劇方法と魅力的な台詞で鮮烈なデビューを飾り、世間の注目を集めた。劇団☆新感線のいのうえひでのり、第三舞台の鴻上尚史など多くの作家・演出家に影響を与えた。


机に座って脚本を書く行為を役者の肉体に台詞を刻み込んでいく稽古場での創造活動へと変えた功績は大きい。しかし、この方法を真似たところで傑作は生まれない。つかさんだけとは言わないが、限られた才能にしか許されない芝居創造のメソドなのだ。


インターネットで検索してみると、幾つもの劇団やプロデュース公演で「熱海殺人事件」は扱われている。つかさんの手を離れて、演出家と役者に委ねられた肉を削ぎ落とされた脚本という叩き台がどう料理されるのか楽しみで仕方ない。


大分に講演に来たつかさんの話は、エッセイの中で書かれたエピソードの焼き直しだった。客席は大いに笑って満足していた。


僕は、金太郎と愛子の凄まじく、生命と人生を賭けた「ぶつかり稽古」の場面に、いまだに涙する。全ての演劇の中でもこの場面は、傑作中の傑作であり、これ以上の「情念」と「切なさ」をこの世に送り出すことはできない、と個人的に思っている。


演劇で「熱海殺人事件」を観るのは困難だろうが、映画版も悪くない。演劇には遠く及ばないが、日本映画の佳作であることは間違いない。ぜひぜひご覧ください。