なゆたは立ち上がった。
辺りを見渡し、非常階段の扉の窓から校舎内を覗き見た。
喉が鳴る、心音が五月蝿い。イヤホンを耳から抜いて煙草を壁の隅でもみ消す。
状況が飲み込めず、扉を少し開けて音を確認する、なにやらざわついているようだ。行って確認したいが自分の教室は逆方向だ。ここは八、九組の廊下、六組の僕がこんな早朝に違う教室から出てきたとは思われたくない。ましてや非常階段にいたなんてもってのほかだ。みんなが登校して校舎内がざわつけば、いつも通り何食わぬ顔でここを通るのだが。
少々リスクを伴うが、このまま非常階段を下まで降りて正面から入る事にした。ただ降りてすぐはピロティだ、クラブ部活動をしていないのにそこに自分がいては不自然だ。慎重に行動しなくては。
ピロティを横切り、食堂の側の廊下へ抜けた。もうすぐ下駄箱だ。八時半頃には賑わうが、まだ三十分早い。下駄箱付近に四,五人ほど生徒がいるがこの際仕方ない。小走りを止め、普段通りの歩幅に戻した。少し息が荒い、悲鳴が聞こえた方角はどの辺だろうか、
三階なのは確かだが。
「おい、お前!」
魂を急に鷲掴みされたような衝撃が身体を走る。声のする方へ頭だけ振り返る。
「お前、何年生だ?今そこのピロティから入ってこなかったか?!」
まずい、見られたのか。いや、まだわからない。
「え?なんでですか?僕がそこから入ってくるのが見えたんですか?」
「入って行くのは見ていない。先生が今そこから入ったらお前が背を向けてそっちへ向かっていたからだ、そこから入ったのか?」
「いや、だから先生は僕がそこから入
ったのを直接見てないんですよね?」
「そうだ」
「じゃあもうわかってるじゃないですか、僕はそこから入ってません」
「じゃあなんでここにいる?ここで何してた?」
「実は言い辛いんですが、昨日の昼休みにここで遊んでたんです、家に帰ってブレスレット無いことに気がついて、もしかしたらここに落ちてないかと思ってそれで」
僕は申し訳なさそうに上目づかいで先生を見る。
「こんな早朝から探してたのか?」
「はい、誰かに取られたくなくて」
なんだか釈然としない表情を浮かべているが、うまく誤魔化せた。
「見つかったのか?」
「いえ、だめでした」
「そうか、それより誰かここらへんで見なかったか?あとお前二年生だな、
今教室に戻らなくていい、ちょっとそこらへんにいろ」
そんな言葉を置いて先生は来た道を引き返した、酷く顔が引きつっていた、
さっきの悲鳴と関係してるのだろう。
下駄箱付近では先生が生徒を堰止めていた、校舎内へ入らせたくないのだろう。すぐにピロティへ出て別の入り口から三階へ向かった。校内放送が流れた。号令がかかるまで校舎内へは侵入禁止らしい。
階段を三階に登りきるところで話声が聞こえる、六組辺りだ。仕方なく回り道して反対側の廊下から様子をうかがう事にした。
そこは異空間と化していた。日常の学校生活で見る風景とは著しく異なっていた。来た瞬間は口元を押さえ目をしかめたが、すぐに作り物とわかった。
動物のぬいぐるみやマネキンの手などが積み上げられ、赤いラッカースプレーか絵の具を壁一面にぶちまけていた。
悪魔にでも出くわした気分だ。誰が何のためにこんな事したのだろうか。
呆然と眺めていると、遠くから先生が走ってきた。まずいと思ったが逃げられず、二、三人の先生に囲まれた。後から来た先生はさっき食堂であったばかりの先生だった。放送は聞いたが教室に筆記用具を取りに行ってから外へ出ようとしたら、ここに出くわしたと申し訳なさそうに説明したら、この事は誰にも言うなと念を押され、解放してくれた。
今日は泥棒が侵入して荒らされた為、
片付けと調査が終わるまで校舎内侵入を規制した、と朝の会で先生が説明した。
休憩時間には、学校中で今朝の話題が飛び交っていた。しかし真相を知るのはごくわずかな人間だけだ、朝の悲鳴、一体誰なのだろうか。
いつもの寺の階段が見えてくると、すでに彼女はいた。棒か何かで蟻をつついている。体育座りのような姿勢でしゃがんで、顎を膝に乗せ、下を向いていた。表情は見えない。さらりと長くて黒い髪が、カーテンのように右膝を隠し、その黒さと繊細な髪が肌の白さを際立てた。
彼女なら今朝の事をどう感じているのだろう。
「蟻も迷惑だろうね、どこかへ出掛けてたんじゃないの?」
「いいえ。喜んでるふうに見えるけど。だってほら、騒いでお祭りみたい」
それから中身のない会話が続いた。彼女はまるであの事件なんて無関心なのだろうか、僕から切り出してみることにした。
「そうそう、学校に泥棒入ったみたいだね、何盗んだのかな」
「ね、何盗んだんだろう」
さっきまで何を話しても、一度も顔を上げなかったのに、まるでこの話を待ってたかのように顔を僕に向けた。
一瞬だがその表情に浮かんだそれは初めて出会った非常階段で別れ際に見た表情と似ていた。
重い鉄の扉の窓から、校舎内を覗き見た。何やら騒がしい。何人かの生徒が廊下を走っている。後を追ってみると、今度は音楽室の前でぬいぐるみの死体が転がっていた。周りを大勢の生徒が囲んでいる、みんなまるで医者に死を先刻されたような表情だ。後ろの目立たないほうに彼女がいる、こちらには気付いていないらしい。特に表情も浮かべないまま黙って見ているだけみたいだ。
他の生徒は恐怖でおののいたり好奇の目で眺めている中、一人だけ冷めた表情の彼女は、一段と浮いて見えた。
今回も前回と同じ奴の仕業だろう。ただ異なるのが、壁紙を切り裂き引き剥がし剥き出しになった壁から血が吹き出したように見せた演出が加えられていた、あとは破れたぬいぐるみやマネキンの腕らしき物がまるで血塗れのように赤く染まっていた。
ほのかにいい香りがする。思い出せば前見た時も現場で、このような香水の香りがした。シトラス系にムスクを足したような匂いだ、偶然かと思ったが、意図して香りづけしたのだろう。
少し二、三歩離れて全体を眺めてみた。やはりそうだ、これを作った犯人はアートとして作品を作ったに違いない、たしかに美しいかもしれない、でも自分の好みではない。ただわかるのは犯人は少し僕に似た奴だろうと思う。
ふと横を見ると彼女は消えていた、ようやく先生が押し寄せ教室に戻れと生徒を散らした。僕は最後まで壁にもたれかかり腕組みしながらその作品を眺める。この作品はどんなメッセージが込められてるのだろう、ぬいぐるみの配置や、壁紙の切り裂き方も適当に見えるが、何か意味やバランスを考えてるのだろうか。
「なぁ、おい」
イヤホンを片方外し、すぐに後ろを振り返った。
「放送聞いてた?講堂で全体集会」
学級委員はそれだけ言って教室を出る。普段クラスの奴らに話しかけられることはほぼ皆無で、呼ばれたのも聞き間違いかと思った。教室には僕一人だけで、こうなるまで変化に気がつかなかった自分が可笑しくてにやついてしまった。例のアートの事ばかり考えていたからだ。
緊急の全体集会、今回の騒ぎの事だろう。
三十分に渡る集会から教室へ帰る僕達は、一年生、二年生より足取りが重かった。なぜなら今回の騒ぎが落ち着かなければ、修学旅行がなくなる。
もしくは無期限の延期との事だった。
僕は修学旅行は行かないと決めていたので気分は楽だった、むしろうなだれるみんなの顔を見て、ざまあみろと心で笑っている。
いないとは思っていたがやはりいなかった。当然だろう、僕は普段より二時間遅くお寺に着いた。
杉村はどうも頭がおかしい。今日の放課後も恒例の抜き打ち服装検査があった、講堂の出口八ヶ所に、先生が二人ずつ立ち、髪の毛の色、ピアス、スカート丈などチェックする、パスすればそのまま下校という流れだ。ここ最近まで僕は止められた事は一度もなかった、しかし今日で二回目になる、
最近になって杉村が髪が青いだの、普段だらしないだの、と、必ず止めるからだ。
止められると約束文、反省文の他に講堂の掃除、窓拭きなどやらされる。何より全校生徒のチェックが終わるまで待機だからたまらない。
気のせいかもしれない、僕の時だけタイミング良く四人の先生がチェックをしてきた。全身を舐めるように見て、
鞄の中をチラチラ覗いていた。そしてとても気安く会話してくる、これまでの緊迫した服装検査の雰囲気とは明らかに違っていた。しかしその目は真剣そのものだった、身体の動き、表情など僕と会話する事により、なにか探ろうとしてるような気がしてならない、
何だかとても嫌な気分だった。
「わかりません」
「またか、じゃあいい、六十五ページのまとめポイントを読め」
どういうつもりだろうか。廊下でこいつと出くわした日から社会の授業は最悪だ、服装検査もそうだ、目を付けられてる、完全に嫌がらせだ。社会の授業が始まってまだ十分足らずなのに、
杉村にもう五回連続で当てられてる。
初めはクラスのみんなも奇妙がっていた、不信感も覚えたに違いない、笑う奴もいた、だが今は無反応だ、これが僕じゃなかったら、きっと問題になっていただろう。朗読が終わり座る直前、ふと机に目線を落とした。隣の女子と僕の机が離されていた、さっきまでくっついていたはずだが。
僕が最も緊張する時間に終わりの鐘が鳴り響く。杉村は教室を出るとき必ず一目僕を見る、僕もそれに合わせて奴を睨む。今はっきりした、気のせいだとは思っていたが以前廊下で出くわし、別れ際、こいつの口の端がつり上がったように見えた、そう、微かに笑った。最近教室を出るときも全く同じ表情をその顔に浮かべる、何か面白い物を見つけたような、忌々しいしゃくな顔だ。困る僕を見て楽しんでるに違いない、あの眼鏡越しに僕を見ると何が映ってるのだろう。
昼休憩が終わり理科室に入った、毎回感じるが、学校でもここだけは特別な雰囲気の部屋だ。
そしてそんな部屋で、またもアーティストは作品を披露した。
すでにアートの周りに人集りができていた為、丸椅子の上に立ち、それを見下ろした。一瞬目を疑った、前回とはどこか雰囲気や空気感が異なっている。人の間を無理やり割り込み、アートの二歩手前で四つん這いになった。
今までの要素に、工具や重機に使う焦げ茶っぽい色のグリスやビニールホースが加えられていた。グリスの褐色と、赤く染まる見るも無残な残骸がリアルに腐敗した肉片に見える。赤く染まるホースは血管にも見えた。非常に残酷極まりない光景である。しかし、
いい匂いのする香水がそれらを美しいアートに魅せる。
ふと背中に視線が刺さる気がして振り向くと、数人が冷ややかな目で僕を見ている。自分が四つん這いにまでなって、気持ちの悪いがらくたなんかに目を輝かせて見ているからだろう。立ち上がると間もなく先生が数人理科室に駆け込んできた、またか、と言わんばかりの表情を浮かべ、なぜか僕を睨む。その時は僕がここまで追い込まれるとは思っても見なかった。
「今日、聞いた?理科室でまたあったよ」
「らしいわね、どんなだった?」
「まえに見たやつと雰囲気が違ってたよ」
「へー、どんな風に?」
あまり自分の感じたままの説明をすると、オカルト好きかグロテスク嗜好と思われるので、普通っぽく見たまんまの感想を言うように心掛けた。
「犯人は生徒?先生かな」
「あんな事する先生いるか?」
「わかんない、大人は見た目じゃ何考えてるかわからないもの」
彼女は煙草の煙ををくゆらせ遠くを眺める、いろいろと考えを巡らせているのだろう。僕も小石をそこら辺に投げながら時間を持て余していた。
「ねぇ」
彼女を見る、その表情を見て僕は驚く、彼女はまるで世界の終わりを迎えたような顔をしているからだ。
「どうししたの?」
「後ろ、ちょっと見て」
僕は後ろを振り向く、お寺に続く階段が続いている。
「違う、私の背中、早く」
身を乗り出し彼女の背中を見ると長く綺麗な髪にどこから来たのかバッタが止まっていた。
「ツチイナゴだ、可愛い奴だ」
「お願い取って、早く、お願い」
絶望の表情の正体はこれだったのかと笑いがこみ上げる、困る彼女の顔を見てるとなんだかバッタをとるのが惜しくも思える。
「その内逃げるさ、じゃあ僕は帰るよ」
「待って!取ってよ、お願いだから」
仕方なくバッタを取る、すると彼女は後方に飛び跳ねるようにその場を離れた。
「虫苦手なんだ」
「女はみんな苦手よ、なんですぐ取ってくれないの?」
「怖がるほどじゃないよ、ただの虫じゃないか」
「私は嫌なの」
「僕も虫が苦手なんだよ」
「さっきと言ってることが違うじゃん!」
「そうだっけ?」
「もう、意地悪!」
彼女は鞄で僕の腕を叩き、帰ると言い出した。僕より四段上の階段にいたので僕の脇を通り階段を降りた。手を振り、寺の階段へ続く道を出て行くまで眺めていた。
いつもは彼女が自転車を漕ぐ後ろ姿をこんなにも眺めることはない、今日は彼女から目が離せなかった。
彼女が遠ざかる姿を眺めながら考えた。
僕の脇を今さっき通り過ぎた時、微かに良い香りがした、アート付近で放たれているあの香りだった。いや、した気がした。
授業が頭に入らない。たしかに現場にいたら、誰しもあの匂いが少しくらいは制服につくだろう、しかし今日の現場には彼女はいなかったはず。
今日のアートは僕のクラスの理科の授業で披露された、もし四時間目にアートがあれば、既に騒ぎになっているはずだ。もしアートを作るとすれば昼休憩だろう、誰もあんな教室で遊んだり、弁当を食べるわけないはずだ。
しかし彼女があれを作る姿が想像できない、あれだけの物を短時間で作り上げるなら、一人以上であり、男じゃないと無理だ。
まぁ特に自分に被害はないし退屈だった学校生活に少し面白みがあったって悪くない、このまま次々と僕の周りで、僕を巻き込まない程度の騒ぎが起こればいいと思っている。ただ最初の事件以降、毎朝教室で鞄の中と、ポケットの中をチェックされるようになった。おかげで煙草は二本だけしか隠して持って来られなくなった。
授業を切り裂くように教室の後ろのドアが勢いよく開いた。入って来た先生は、真っ直ぐ僕の席へ近づいて来る。
「おい、ちょっと来てくれ。先生、授業中すいませんね!彼を少し借りますよ!」
何事だろう、生徒指導の先生に突然授業中に呼び出しをくらった。煙草がばれたのだろうか、親が危篤?不安でたまらないまま先生の後をついて行く。
シャカシャカと先生のジャージが擦れる音と、加齢臭と煙草の匂いが、大人の臭いを感じさせる。こいつのあだ名は"下駄屋"という。ほんとかどうかは解らないが、実家が下駄屋だそうだ。
卒業生達もそう呼んでいたので、受け継がれたのだろう。小太りで浅黒い筋肉質の狸みたいな奴だが、血の気は多い。
一階の下駄箱の隣、生徒指導室に通された。秋になりかけでまだ少し蒸し暑い。四畳半位の広さで、鼠色の机を向かい合うようにパイプ椅子が置かれていた。下駄屋は奥に座りため息をつく。突っ立っている僕を下から覗き込み、顎で座れと合図した、この時点で嫌な予感がした。座ると丁度眩しい位の正面の位置に窓があり、太陽が僕を照らす。耐えきれず僕はうつむくしかなかった。
普段あまり利用されない生徒指導室、
少しカビ臭い。数分沈黙が続き、下駄屋が話し始めた。
「お前、随分早い時間に登校してるんだってな」
こいつが直接、僕が早く登校してるのを見た訳じゃないんだなとわかった。
「はい」
「とてもいいことだ、だがそんな早く学校へ来て何してる?」
本当の事は言えない。教室で宿題をしていると答えようか迷ったが、ここは探る事にした。
「なんでそんな事聞くんですか」
「そりゃ不思議に思うだろ、六組に朝見に行ってもお前教室にいないそうじゃないか、どこで何してるか気になったんだ」
やはり下調べ済みだった、どうする、
下手な事は言えない。こっちから切り出すか、もう少し様子をみる。
「そうですね、行き違ったかもしれませんね。大体は教室にいます、あと朝はお腹の調子が悪くてほとんどトイレにいたりします」
「トイレねぇ」
「それも食堂前のトイレだったり、玄関前だったり、ここの階のは汚くて」
「そうか、ちょっとこれ何に見える?」
写真を尻のポケットから取り出し、机に置く。ピントがぼやけてよくわからない。下駄屋がさらに写真を僕の目の前に突き出す、まるで木の皮のようにゴツい手をしていた。それでもよく確認できず、その写真を手に取った。
写っていたのは、校庭に白線の粉を引く手押し車だった、こんなもの見せてどうするのだろう。
「白線を引くあれですよね」
「あぁそうだ」
「これが何か?」
「うん。お前、左利きだな、この写真を左手でとったよな」
「はい。左利きです」
「うん。実はな、最近続いてる騒ぎ知ってるな?その現場にこれが転がっていた」
下駄屋は腹のポケットから紙袋を出して、中の物を机に出した、小刀とはさみだ。
僕はそれをただ見つめる。
「これな、わかるか?二つとも左利き用だ」
特に言い返す言葉が浮かばない。
「いいか、はっきり言っておく。今回のくだらない悪戯の犯人にお前の名が上がっている、わかるか?」
予感は的中した。なんて事だ、でも考えてみると疑われてもしょうがない。
でも真実は曲げられない、僕が犯人ではないのは真実だ、恐れる事ではない。このまま沈黙を続けてみる事にした。
「なぜ黙る?違うと言えないからか?先生達は総出でいろいろ調べたんだ、この数ヶ月間で、ずば抜けて早く登校する生徒は八人いる。お前も含めてだ」
僕以外に七人いたとは驚きだった。
「その中で学校のどこにいるのか把握できないのはお前だけだ、そして左利きなのもお前ただ一人」
こいつは馬鹿なのだろうか。ただそれだけの情報で、いちいち授業中の生徒を連れ出して疑いをかけるとは。呆れてものも言えない。
「なぜ黙ってるんだ?ん?お前、やったんだな?」
「いいえ、やってません」
「なに?嘘つけ!」
「やってません」
「じゃあ朝早く登校して何してる!言ってみろ!」
この時、初めて顔を上げこいつの顔を睨めつけた。
「さっき言いました、そしてやってません、授業に戻ります、失礼します」
生徒指導室を出て、階段を上る途中でチャイムがなった。無駄で腹立たしい時間を費やした、しかしちょっと面倒な事になった、非常階段はもう危険である、そのうち見つかるだろう、困った事になった。生徒達が一斉に教室から廊下へ出る、さっきまでの静けさが嘘のようだ、次の授業が体育なので、
六組の教室を出て、廊下を挟んだロッカーに体操服をとりに行く。みんなロッカーに群がって邪魔なので、少し後ろで待ち、ようやくロッカーを開いた。その瞬間バラバラと何かが中から落ちてきた、後ろで悲鳴が聞こえる、
クラスメートの女子だろうか、しかし顔を確認する余裕はなかった、足元に転がる赤色スプレーを吹きかけた。
沢山のネズミの玩具の前にしては。
ようやく解放された。でも解放されたとは言えない、これで完全にマークされたことになる、一体だれがあんな事を。
「クソッ、クソッ」
吐き出すように呟いた。 腹が立って仕方ない、誰かが僕を犯人に仕立て上げようとしている。今にも爆発しそうな怒りで全身が熱い。このままじゃ僕が犯人になってしまう、アートの傍観者として楽しんでいたのに、まさかこうなってしまうとは。
もう黙ってるわけにはいかなくなった、こうなったら犯人を見つけるしかない。
いつもより随分遅く下校した。いないだろうと寺を遠くから見る、やはりいないようだ。
今日は精神的に疲労困憊で、身体が怠く気が重い。さっさと帰って早く寝よう、と心に言い聞かせ、家路を急ぐ。
そして明日から、みんなと同じ時間に登校すると決めた。
僕の机は落書き帳のようだ、今朝は
"変態"とか"サイコパス"とか書かれていた。
「クソッ」
小さく吐き捨て、席に着いた。机の中にノートを入れようとすると、何かがつっかえて入らない、不思議に思い、
中を覗く。どうやら机の中はゴミ箱のようだ。クラスメイトを見渡すが、ほとんどが瞬時に目線を逸らす、囁く声と虫が鳴くほどの笑い声が聞こえただけだった。
どう広まったか知らないが、既に僕が今回のあの騒ぎの犯人と疑われてるのだろう。明らかに犯人は僕に罪を着せようとしている、僕に何か恨みがある人物なのだろうか。でもそんな奴は沢山いる、困ったことになった。
犯行時間は早朝、昼、放課後いずれかだだろう、夜中に忍び込んでまでやることとは思えない。そして一人以上の数人での犯行だ。性別は男性、面白がって僕の苦肉に歪む表情を想像しながら、あんなアートを作っているのだろうか、『クソッ』虫酸が走る、一体何の為に。犯人達は困り果てる僕の顔を、今もどこかで観ているのだろう。
沸騰しそうな頭を落ち着かせ、深呼吸をする。
それらの作品を作るためには、当然材料がいる。憶測ではあるが、大きめのトートバッグ三つくらいあれば十分だろう、それから手も汚れるはずだ、手袋でもしないとペンキが手に付く。それから、、、。
いろいろ考えでいると頭が混乱してきた、わけがわからなくなって考えるのを中断し、机に額を置き目を閉じた。
少ししてある策が閃き、顔を上げる。
午後の教室の窓から裏山を見る、窓側に座る何人かが不審そうに僕を見るが、目を合わせないでいた。
そうだ、試しに僕も一度同じ物を作ってみよう。
どうしたわけかこの四日程、アートは飾られていない、何か訳があるのだろうか。犯人を特定するために、僕が一度同じようにアートを造れば何かわかるかもしれない。
これを"アングリ作戦"と命名した、なんとなくかっこよく思えて、気合いが入る。
数日間いろいろ模索して、家の自室でシュミレーションしながら研究した。
その結果、早朝が一番リスクが少なく都合がいいと判断した。いよいよ明日アングリ作戦を決行する、今日はいつもより早く布団に潜り込んだ。
季節はもう秋に変わろうとしている、
朝方は冷えるが力強くペダルを漕ぐ。
薄暗い中学校の裏門から校舎に侵入した、時間は六時前。下調べでは先生達は七時半頃に学校へ来る、早くても七時だろう、警備のおじさんも週三日しか、学校に泊まって警備をしていないみたいだ、勿論今日はいない。
不気味なほど眠った校舎内はひんやりとしていた。自分の足音や、歩くたび服が擦れる音が大きく感じる。もしもの事も想定してアングリ作戦決行場所を、一階の多目的教室前に決めた。
ここは二つの廊下が重なる角で、ここへ来るにはこの二つの廊下を通るしかないし、見通しも良い。誰か発見したら直ぐ逃げることができる。また、多目的教室の中の窓から、校舎裏へ逃げることもできる。多目的教室の鍵を、
昨日開けたままにしておいた、たまたま掃除当番だったので都合が良かった。万全の決行日和であり、ぜんぜん楽勝だとたかをくくっていたが、いざ来てみると不安感で今にも押し潰されそうだ。視覚と聴覚が最大限に研ぎ澄まされ、敏感になる。
喉も渇き、たまらずトイレの側の手洗い場に行って水を飲む。水がシンクに落ちて音が立たないように慎重に蛇口をひねった。
ぬいぐるみなど、デパートに見に行くと安くはない値段だった。これを数個買ってシュミレーションにするにはお金が勿体ない、犯人もわざわざ新品を買うだろうか、結局そのままデパートを出て、中古雑貨屋で幾つかぬいぐるみを購入した。一個百円程度で購入できた。これなら高校生の小遣いのキャパを超えない程度だろう。
赤スプレーや絵の具、ペンキはホームセンターで購入した。そしてこのホームセンターの中にあるペットショップで、見慣れたものを発見した、猫用ネズミの玩具だ、学校の廊下のロッカーでにらめっこしたのが目に焼き付き、デザインの詳細まで正確に頭に記憶されている。全く同じものがここで見つかった。あれがペット用玩具だったとは知らず、なんだか犯人特定の手掛かりを発見したみたいでワクワクしてきた。
重機用グリスも安く売っていたが、近所の畑の隣の耕運機があるボロ小屋の中にあったのを失敬してきた。これらを怪しまれず自分の部屋に持って行くのが一番大変だった。
全ての材料をいっぺんに学校へ運ぶのは困難だ、三日にわけて見つからないようなところへそれぞれ隠した。作戦決行場所からほど近い、多目的教室の中の物置や、廊下の消火栓の中などに振り分けた。
事前のシュミレーションでは十分以内でアングリ作戦は完了する、作戦の準備に、手にはビニール手袋、上履きの上から大きめの布袋を履いた。これで赤ペンキがつく心配はないだろう。まだ太陽は昇らない、薄暗いが真っ暗とは言えない、でも本当にこんな事やる必要があるのか、不安感から解放されたくて迷いが出てきた。しかし中止すれば今までの時間が全て無駄ではないか。このまま犯人扱いされたくないし、何か犯人特定の糸口が見つかるかもしれない。影で僕をクソ扱いしてる奴らに身の潔白を示してやりたい。そうだ、やるしかない。時計が六時十八分を指す。
アングリ作戦は決行された。