午前0時に目が覚めた。


今日が終わり今日が始まる。


最近忙しくしていて、食べられる時間がある時に食べて、寝る時間がある時に寝る、という生活。


新しい事を始める、という喜びは若い頃に比べて格段質が落ちていて、どうしてこんな事を始めようと思ってしまったんだろう、とふと思わなくもなく、とにかく老いというものは躍動感に欠ける。


弾けるとかなんてもうなくて、弾けるパワーが少しでも残っているならそれはそれで良かったと思うが、もう弾けなくてもそれはそれで良い。


なのに、何か良い事がないかしら?何か心踊る事がないかしら?とワクワクを探している。


中途半端な人間、と自分を思う。





先日、激混み覚悟で京都へ行って来た。


相変わらず外国人だらけで、なんなら日本人さえアジア系の方?と見間違えてしまいそうなくらい外国人で溢れる京都は、昔とはずいぶんと変わってしまった。


今回の目的地は宇治市にある平等院。


鳳凰堂の雲中供養菩薩は何度見ても震える。


照明の加減といい、室温の加減といい、あの空気感が堪らない。


平等院といえばやはり藤だが、今回は他にも用事があって桜の時期に。


ちょうど満開の頃で、老いてなお色づく桜に嫉妬してみたりする。





お店が開くのを待って、江戸時代から続くお茶屋で一服。


抹茶と羊羹をいただいて、飲み比べさせてもらって気に入ったお茶を購入。





その後市内に戻り、高瀬川の桜を見ながらいつものお漬物屋で千枚漬けと山椒たくあんを買って、ランチはここもいつものお肉屋。







充実した一日、というか、充実させようと頑張った一日とでも言えば良いのだろうか。


他人から見ればきっと、観光して美味しい物を食べて良いこっちゃ、と思われるのかも知れないが、相いも変わらず私の心は満たされない。


いや、満たされる、という感覚が他人とはどこか違った所にあるのか、それとも持たずに産まれて来たのか、果てはそれは始めから備わっていないのか、きっとどれがだ。


風が今日という日を連れて来た。


その風の音が、見つけて!と囁いている様だ。






時計も

十二時を打つとき

おしまいの鐘をよくきくと

とても大きく打つ

きょうのおわかれにね

きょうがもう帰って来ないために

きょうが地球の上にもうなくなり

ほかの無くなった日にまぎれ込んで

なんでもない日になって行くからだ

茫々何千年の歳月に連れこまれるのだ

きょうという日

そんな日があったか知らと

どんなにきょうが華やかな日であっても

人びとはそう言ってわすれて行く

きょうの去るのを停めることが出来ない

きょう一日だけでも好く生きなければならない





今日が始まり今日が終わるだけなのに、限りというものに心乱されている。


それでもまた今日も、私は笑っている。