崇高かつ荘厳な僕の言葉は愚劣なる下々の民には理解が出来ぬようです。

僕は、日本語を母語としながら日本語の通じない愚鈍な日本人と初めて出会いました。

それまで僕の世界では僕が一番愚か者だと厚かましくもそう考えさせて頂いていましたが、なんと僕よりも遥かに知能の低い日本人が存在したのです。

これは素晴らしい発見です。

まず、彼女は僕が難しい言葉で――ええ、とても難しい、「安寧」という言葉を使って――話すと、その意味を全く理解していませんでした。

それから、これもとっても難しい表現――「机上の空論」――を使うと、あろうことか「難しい言葉を話す人間は嫌いだ」と抜かしやがりました。

僕は当然の如く彼女たちを見下しました。

自分より知能の低いものに敬意を払う必要はありません。

早とちりをして僕に猜疑心を抱き、その結果僕に蔑まれてしまうのですからもう救いようがありません。

彼女はおそらく、「知らぬが仏」という言葉さえ知らないのです。

18年も時間を無駄に生きて、なんという潰しでしょうか。

彼女は日本人として生まれながら日本語を知らない、または知ろうともしない己を恥じてはいないのでしょうか。

勿論恥じてはいないのでしょう。

それほどまでに彼女は、彼女たちは哀れな生物なのです。

ただ生きているだけで、決して社会の役には立たない屑なのです。

僕は皆様が恋しくてなりません。

またあの潮風の爽やかな土地に戻って、皆様とささめき語らいたい。

けれどそれもしばらくは叶わぬようです。

僕はこの息苦しい外国の土地に束縛され、知性の欠片も無い屑共と同じ空気を吸わねばなりません。

その前に「私」が壊れてしまわぬよう僕は彼女たちを「私」から遠ざけることにしました。

僕が長年培ってきた冷酷や薄情などという武器を言葉にかえて彼女たちに淡々と叩きつけている間、「私」は何度か涙ぐみそうになっていましたが「私」のこれからのために我慢をしてもらいました。

結果、彼女たちは揃って泣き出しましたがいい気味です。

僕はそれに罪の意識を感じることはありません。

なぜなら僕たちの存在理由は「私」を守ること。

それが例え多重人格と綽名されていようとも、僕たちは脆弱な「私」を守り、「私」がこの社会で生きていけるようにしなければなりません。

そのために何が犠牲になろうと僕の知ったことではないのです。

僕は「私」が幸せならばそれで構わないのです。

「私」は今怯えています。

あらぬ噂が流されるのではないか、孤立するのではないか…けれど、「私」は存外に僕たちが嘘の巧いことを知りません。

「私」が案ずることは何もありません。

むしろ「私」が孤立して「私」の内面の僕たちと遊んでくれほうがどんなに楽しいでしょう。

「私」は皆様のことが大好きです。

皆様と共にいるとき「私」は僕たちの存在を忘れ、「私」としてとても素晴らしい時間を過ごしています。

それは少し寂しいのですが、仕方のないことだと割り切っています。

僕たちと遊んでいるときの「私」は他人の目には「自分の殻に籠っていて頑なに口を閉ざしている」ように見えるらしいので、「私」が社会不適合者と誤解されないためには僕たちがなるべく表に出ないほうがいいのです。

気がつけばこんなに長くなってしまいました。

本来影であるべき僕がこうして「私」を支配しているのも、そうでもしないと「私」は被害妄想に囚われ狂気に陥ってしまいかねないからです。

明日から「私」の性格は大きく変わってしまったのだと多くの人間が誤解するでしょう。

何故ならばしばらくの間僕はこの体を「私」に任せるつもりはないからです。

僕は一人でも平気です。

「私」が泣いて縋れる相手がこの土地にいない以上、帰国まで僕の支配は続くでしょう。

草々