『利休にたずねよ』
観てきました。
織田信長と豊臣秀吉の茶頭を務めた茶人。
天下人をも魅了し、その固定観念に縛られることなく物の本質を見極める目を持っていた千利休。私自身、利休が大~好き。
利休って本当に美しいものを観る目を持っていた人ですね。
それはもの・存在を、ただのもの・存在だけで観ない卓越した認識センスだったのではないかなと。だから目の前の存在を無限の可能性で、神秘で観る力が半端なかったから、天下人たちをこれ程までに魅了し、その魅力に人たちが心奪われたと思うのです。
利休は茶を通して、その人が背負ってきた一切をほどいてあげて、今ここを生きて存在できる喜びを味わうようにさせた人だと感じます。
『直心の交わり』
利休がすべてを美しく観る目を持っていることは、高句麗から買われて連れて来られた一人の女性との関係性の中でも強く感じられました。
私が感じる処、『死を覚悟したものの中に宿る儚くも尊い美しさ』を強烈に美しいと捕えたのではないかなと思ったのですよね。だからこそ、彼女に精誠を尽くしてもてなしたし、死を選択した彼女に敬意を表して小指の爪を香炉に入れて切腹の直前まで持っていたのではないかなと。彼女の志を受け継いだと思うのです。
『身体は死んでも魂は死なない。』
きっと先の人間たちが幸せな未来を創ってくれるはずだと意志をたくして逝ったその心。
なんだかちょっと、第二次世界大戦の時の日本人たちが負けると分かった戦争に神風特攻隊として果てていった時の心と似ているように感じました。
『人は誰もが幸せになりたいし、みんな幸せでいてほしい。』
けれどそれができない時代社会。それは歴史を経て科学が発達しても人の意識が稚拙で発達していない現代社会と本質も変わらないけれど、実際利休が生きた時代は、封建社会で暴力権力に支配され、個人の自由もなかったし、人を悟らせるのは大変だっただろうと。
切腹する時の利休は、茶でその心を伝え切るにはまだ時代が早すぎたとすごく悔しい思いをしたのではないかと感じた。人間は自ら差を取って(悟って)観点の外に出れないから、人間の観念に縛られる。
もっと欲しい、欲しくて欲しくて止まらない。
フランス人権宣言、イギリス産業革命を機に農業社会から産業社会にプレートチェンジし実物経済・金融経済の発展と共に、物質的な欲求や自己実現・心の満足を満たしても悲しいかなどうしても到達できない何かが常に存在してしまう。
それは人間が共通に持つ機能的な限界から生み出される。脳に支配され観点の外に出れないから観点固定は外せない。外せないからどこまで行っても終わりなく到達できない本物の尊厳。本物の尊厳に到達しないと、人間はいつまで経ってもどこまで頑張っても自分を幸せだと感じられない。おそらく現代の人たちはそれに薄々気付いている。
その『尊厳の心』を伝える為に、利休は『茶の湯』を使ったと思うけれど、最後も秀吉の支配権力からくる尊厳を毀損した申し出に、『私が傅くことができるのは、美しいものだけです。』と断り自らの尊厳を貫いた姿には感動して涙が出ました。
そして『いつか、必ず自らの心を伝えられる人が現れる時代が来る。』
利休はそう願って切腹して逝ったように感じました。
あらゆる観念の差を取って、観点の外に出て、今ここ尊厳そのものの自分と出会える認識技術『観術』はここ福岡・日本で生まれて育っている。私たちのプロジェクトの中で、千利休を映画化しようとする理由を少し考えてみるきっかけになったのもよかった。『観術』を通した千利休の映画化を楽しみにしたいと思います。