▼Wikipediaより
多賀大社(たがたいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社。式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。
古くから「お多賀さん」として親しまれ、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。お守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされている。
祭神
伊邪那岐命 イザナギノミコト
伊邪那美命 イザナミノミコト
由緒
和銅5年(712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。ただし『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写である可能性が高い[注 1]。
『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上氏(姓は君)の祖神を祀ったとの説がある。犬上氏は、日本武尊の子の稲依別王の後裔とされ[1]、飛鳥時代の遣隋使・遣唐使として知られる犬上御田鍬にはじまる[2]。この犬上氏は、多賀社がある「犬上郡」の名祖とされる。
藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。
なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社(境外社)の山田神社は猿田彦大神を祀る。
多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。敏達天皇の時代には胡宮神社の境内に敏満寺も建立され、やがて敏満寺は多賀大社の奥の院となる。
八咫烏関連の神社で烏に供物を捧げる先喰行事と言う特殊な御鳥喰神事を行っている。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ」
戦国時代の明応3年(1494年)には神仏習合が進み、神宮寺として天台宗の不動院が近江守護六角高頼によって建立された。神宮寺配下の坊人[注 2]は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢神宮・熊野三山とともに庶民の参詣で賑わった。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。なお、当社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。
長寿祈願
多賀社は特に長寿祈願の神として信仰された。
鎌倉時代の僧である重源に以下の伝承がある。東大寺再建を発念して20年にならんとする61歳の重源が、着工時に成就祈願のため伊勢神宮に17日間参籠(さんろう)したところ、夢に天照大神が現れ、「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。重源が多賀社に参拝すると、ひとひらの柏の葉が舞い落ちてきた。見ればその葉は「莚」の字の形に虫食い跡の残るものであった。「莚」は「廿」(「卄」を異体字とする。wikt:廿参照。)と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、これは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。神の意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は以後さらに20年にわたる努力を続けて見事東大寺の再建を成し遂げ、報恩謝徳のため当社に赴き、境内の石に座り込むと眠るように亡くなったと伝わる。今日も境内にあるその石は「寿命石」と呼ばれている。また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋」[3]はこの伝承が由来である(今一つに三つ巴がある)。
天正16年(1588年)には、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母・大政所の延命を祈願し、成就したため、社殿の改修を行わせようと大名に与えるに等しい米1万石を奉納した。境内正面の石造りの太鼓橋(不動院大僧正慈性により寛永15年(1638年)造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。
喪失と再建の江戸期
元和元年(1615年)には社殿が焼失したが、江戸幕府将軍徳川秀忠により社領350石の寄進を受け、寛永10年(1633年)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成した。
慶安4年(1651年)には彦根藩主井伊直孝により社領150石の寄進を受けている。
明和3年(1766年)に屋根の葺き替え等の大改修が成る。ところが、安永2年(1773年)には大火災によって大半の社殿が焼失してしまう。さらには天明2年(1782年)にも火災に遭う。その上、寛政3年(1791年)には暴風で多くの社殿が倒壊した。このように江戸時代の多賀社は災難続きであったが、その都度彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われ、文化5年(1808年)には本殿が再建された。
車戸家は古代より当社の神職を務めている。幕末に出た多賀社大祢宜の車戸宗功は長州藩士や土佐藩士を命がけで援助した。それによって後には贈従五位を賜っている。車戸一族は天皇家、公家だけでなく、他にも徳川家、彦根藩、彦根城のためにも奔走している。
明治以降
明治初年の神仏分離令を機に廃仏毀釈の動きが広まり、多賀社の神宮寺も廃絶した。別当職不動院は1868年(明治元年)に復飾せられ、境内にあった全ての神宮寺は払拭せられた。御師や講社は多賀社から分離されたため、1876年(明治9年)、「多賀教会」を結成し公認された。その後旧幕臣の神職平山省斎を教長に迎えた。1878年(明治11年)、省斎は石門心学や淘宮術の講社、大道教(天理教の分派)など、教派や宗派としては規模が小さく公認される見込みがない団体を結集して大成教会を設立し、教長となった。1882年(明治15年)5月、大成教会は教派神道神道大成派として公認され、省斎が管長となった。同年11月には神道大成教と改称した。「多賀教会」は1883年(明治16年)、禊教会本院、蓮門教(法華神道)等とともにこれに属し、「大成教多賀教会」となった。大成教多賀教会本部は多賀社境内にあり、戦後神道大成教を離れ、「多賀講総本部」として多賀大社に復帰している。岡山県や愛媛県の多賀教会は多賀大社に復帰せず、現在も神道大成教に残っている。多賀社は、1871年(明治4年)に県社兼郷社、1885年(明治18年)に官幣中社となり、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。
1929年(昭和4年)から1933年(昭和8年)にかけて境内の整備を行っている。
1947年(昭和22年)「多賀大社」に改称した。
近年の改修と造営
1930年(昭和5年)本殿を新築している。それまでの本殿は1932年(昭和7年)に犬上郡豊郷町の白山神社にその本殿として移築している。
三間社流造の本殿等の屋根の檜皮葺の葺き替え、ならびに参集殿新築造営は、1966年(昭和41年)から行われ、1972年(昭和47年)に完成した。また、当社は2002年(平成14年)から数年を掛けて「平成の大造営」を行った。
延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。
延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。延喜式神名帳とは、延喜式の成立当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座である。
式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定の背景には政治色が強くみえる。当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺となった神社、僧侶が管理した神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。式外社だが六国史に記載がある神社を特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社も含む)。
式内社の社格
式内社は各種の種別がある。まず官幣社と国幣社の別である。官社とは、毎年2月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける神社のことで、各神社の祝部(ほうりべ、旧仮名遣:はふりべ)が神祇官に集まり幣帛を受け取っていた。その後延暦17年(798年)に、引き続き神祇官から幣帛を受ける官幣社と、国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。式内社では、官幣社が573社 737座、国幣社が2288社 2395座である。国幣社が設けられたのは、遠方の神社では祝部の上京が困難なためと考えられるが、遠方でも重要な神社は官幣社となっている。
次が大社と小社の別である。この別はその神社の重要度や社勢によったと考えられる。官幣社・国幣社および大社・小社はすべての式内社について定められたので、式内社は以下の4つに分類されることとなる。
官幣大社 - 198社 304座
国幣大社 - 155社 188座
官幣小社 - 375社 433座
国幣小社 - 2133社 2207座
官幣大社は畿内に集中しているが、官幣小社は全て畿内に、国幣大社と国幣小社は全て畿外にある。なお、近代社格制度にも同じ名称の社格があるが、式内社の社格とは意味が異なる。また、近代社格制度の社格は延喜式における社格とは無関係で、制定時の重要度や社勢に応じて定められた。
式内社の中には、祈年祭以外の祭にも幣帛を受ける神社があり、社格とともに記された。
湖東三山の一つ。寺伝によれば平安初期、三修上人の創建という。現存する国宝の本堂、三重塔は鎌倉時代の本格的な建築。1571年、比叡山延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、近江国にある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じ、西明寺も信長によって焼き討ちの運命にあった。しかし、寺僧の機知により、山門近くの房舎を激しく燃やし、全山焼失のように見せかけたため、山奥に位置する本堂や三重塔は焼失をまぬがれたという。
このような緩やかな坂道が延々と続く。写真では分かりにくいが、参道の両脇にはかなりの広さでコケが自生している。このコケは降雨の有無で発色に著しく影響を受けるらしい。しかし前日までの降雨のおかげでコケは美しく色鮮やかな見事な緑に染まっており、参道の左右はかなり広範囲にわたって、この見事なコケに覆い尽くされており、圧巻であった。
国宝の三重塔と。
同じく国宝の本堂にて。この本堂の中で、観光客向けに解説をしてくれるボランティアのおっさんがおり、堂内には我々二人しかいないため貸切状態にて、このお寺の名前の由来やら、天台宗のお話やら、30分くらいあまり聞いたことがない話を聞かせてくれ、大変面白かった。
釈迦山 百済寺
湖東三山の一つ。百済寺と書いて、ひゃくさいじと読む。聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院同様、延暦寺勢力下に入り、天台宗寺院となった。その後、二度の火災と信長の戦火に遭っている。という訳で、建物自体は見劣りがするだろうと言う事で、我々は一番京都よりのココを先に訪れ、入口での記念撮影だけ済ませ、体力を温存して金剛輪寺に向かったのだった。
松峰山 金剛輪寺
ツチアケビ
この本堂の向かいにある楓の木の根元に、ラン科の寄生植物、ツチアケビというものが自生してました。
聞いたことも見たこともありませんでしたが、楓に寄生するのは大変珍しいらしく、たまたま研究者たちが我々と一緒に観察に訪れており、話を伺うことができた。という次第。
▼Wikipediaより
森林内に生育するラン科植物。ラン科植物として、また腐生植物としては非常に草たけが高く、大きな真っ赤な果実がつくので、大変人目を引く植物である。日本固有種。別名ヤマシャクジョウ。
雨上がりの物凄い湿度の中、汗だくになった我々は、また延々と続くかざ車の参道を降りる気にはなれず、整備員や機材搬入のために設けられている舗装路の坂道をグダグダになりながら、ゆっくりと麓の駐車場まで降りて行ったのでした。ところがこの舗装路は一般車通行禁止。麓まで降りて行くと一般車を通さないための自動柵が閉じられておりました。夕方で整備員たちも帰宅したようです。さてどうしたものかと少し右往左往してると、インターフォンを発見。呼び出そうとした瞬間、モニターカメラがあるのか自動柵が開き、インターフォンからどうぞ。という声が。
無事車に乗り込めましたとさ。
以上。我々の汗だくの日帰り湖東三山めぐりは幕を下ろしたのでありました。
おしまい。

























