昨年冬からの新型コロナの影響で、ずーっと遠出は自粛。けれども、ずーっと籠もり続けるのも限界に。夏前からお出掛けを企むも、出掛けようとするたびに、体調不良やら急用やら悪天候やらで出掛けられない日々が続きます。
そして季節は流れ、10月に。ようやく日帰りで福井周遊ドライブに行くことができました。その記録です。
福井は遡ること20数年前、一度ドライブしたことがあります。けれど、記憶はかなり薄れ、永平寺と恐竜博物館の断片的な記憶がほんのり香る程度に。久しぶりの福井は、そんな遠い昔の記憶との答え合わせの旅でもありました。
出発当日、2020.10.18日曜。早朝5時。
全行程400キロドライブのスタートです。(名古屋ー大阪往復と変わらないくらい)
滋賀経由の北陸道で福井入りするのが最速ルートだけど、急ぐ必要もないので、早朝から景色も楽しめる東海北陸道で峠越えする最短・最安エコルートで向かいます。高速料金、片道1000円未満なり。
まずは東海北陸道 関ICを目指します。刃物の町、岐阜県関市までは40キロくらい離れてますが、信号がない早朝の田舎道なので、スイスイ進んじゃいます。天気予報は晴れですが、朝方は朝霧が激しく、田園や山に霧が立ち込める、ちょっと幻想的な早朝ドライブでした。
▼関市内の朝霧。
色づいてる木々は全然少ないですけど種類によっては紅葉してます。時刻は6時半頃。10月中旬以降、ようやく肌寒さで秋らしくなってきたところで、この日の朝は気温5度。かなり冷え込みました。
朝飯にサンドイッチを作ろうとしていた、ばっさまでしたが、この日はちょっぴり寝坊。サンドイッチは取り止めに。この田園風景を抜けた先のコンビニで、セブンの具だくさんみそ汁などを軽く食べました。
それから高速へ乗り、郡上八幡を過ぎて、白鳥ICを降りると、未完成の中部縦貫道無料区間で福井へ抜けるための油坂峠越えをショートカットして進みます。
▼福井方面、西側へ向かう中部縦貫道無料区間にて、朝霧がかかる山を臨む。

この先、何回かカーブが続き、いくつか長いトンネルが連続する区間を抜けるとすぐに福井県、九頭竜湖が見えてきます。
九頭竜湖
昭和40年から九頭竜川上流に九頭竜ダムが建造されてできた人造湖。国道158号線沿いに10キロ以上続きます。
五木ひろしの唄になってるのか、そばに石碑がありました。
道の駅 九頭竜
比較的なだらかで広めの山道を抜けて、ようやく最初の集落が見えてきたところがココ。訪れると20数年ぶりに記憶が蘇ってきました。到着は8時前。気温は5度前後。軽装だったのでかなり寒さったです。でも昼間は20度前後の予報。朝だけコートは荷物になるだけなので、ココはがまんがまん。

ファミマが併設されており、コーヒーをゲット。早朝でしたが一家族、ファミポートで恐竜博物館のチケットを購入してました。ばあばは恐竜博物館興味ないので今回はスキップです。
▼ここはJR西日本 九頭竜線の終着駅、九頭竜湖駅でもあります。

▼この線路を進んだ先が日本海側。

▼反対側は行き止まり・岐阜側。

▼福井は恐竜の化石と博物館が有名。ちょくちょく恐竜推しが入ります。

最新の研究では体毛があったという線が濃厚っぽいので、このオブジェは一昔前に人類が考えていた恐竜になっちゃってるかもですね。
駐車場に戻ると、福井ナンバーのキャンピング仕様に改造した軽自動車ワンボックスカーから夫婦が犬を連れて降りてきました。今日はドライブのようですが、その車で東北などを周遊したりして遊んでるとの事。狭いけどマットレスベッドで寝泊まりできて三百万弱。こういうのもいいね。
ちなみに帰りもこの道を使いましたが、日曜夕刻に岐阜方面へ向かう車は少なく、仕事で毎日往復してそうなカッ飛ばしてる岐阜ナンバーの仕事車の後ろにくっついて行くとかなり時短できました。信号もほぼ皆無だし、ノロノロ車がいないとナビの到着予想時刻よりも一時間も早くなります。
この道の駅はかなり上流にあるので、次の目的地 越前大野城までは国道を九頭竜川に沿って蛇行しながら抜けていきます。
越前大野城福井県大野市
しばらく走って大野市に入ると平野が開けてきます。山間を抜けて最初の街ですが、こちらもまだ霧がかかってました。

すぐに越前大野城があるので立ち寄ろうとしましたが、朝っぱらから駐車場が激込み。現存天守でもないので横目に通り過ぎて済ませました。
天空の城
しかし後から調べると、この一帯は雲海のように霧がかかるそうで、天空の城として売り込んでるそうです。こんな感じ↓Wikipediaより

なるほどそれで霧がかりの朝っぱらから駐車場が激込みだったワケね。大阪とか県外ナンバーも停まってました。
天空の城といえば兵庫県の竹田城が有名ですが、標高もあり年配の方は登っていくにはキツイかもしれません。が、越前大野城は開けた平地にポツンとあるお山のお城って感じなので、運良く一面霧に覆われると楽楽で天空の城を拝見できます。
この日はダメだったようですが、なんと翌週の10/25に天空の城になったそうです。なんと、それが今年2回目だったそうな。。それを期待していくのも、天空の城推しするのも、だいぶ無理があるような気がするんですけどねぇ。。笑
そんなことはなーんも知らないまま、混んでるなぁ、大したことなさそうだし、次!次!という感じで隣町の勝山市へ。
途中、移動する車中でなぜか元寇の話題になり、ばあばがスマホ音声検索しましたが、誤変換で笑いが止まらなくなり検索も息継ぎもできないまま、笑いながら尿もれしながら車は蕎麦畑が広がる田舎道をどんどん進んで行きます笑
みつわホームセンター
時刻は九時過ぎ。少し開けた道沿いにあったトライアルのようなローカル店舗にさしかかったので、少し寄り道。
福井ローカルフードとしてメジャーな大きくて分厚い厚揚げを購入しました。竹田の厚揚げというのが有名だそうですが、購入したのはあちこちのスーパーでたくさん売られている庶民的な岸田食品謹製。
▼岸田食品ホームページより
▼ばっさまは、特売の長座布団も物色。

平泉寺白山神社
福井県勝山市
ホームセンターみつわから九頭竜川を少し下流に進むとすぐに大野市のとなりにある勝山市。我々は参道が美しい平泉寺白山神社に立ち寄りました。
ここの参道は非常になだらかで、本殿もそれほど遠くなく、すぐに息が切れるばあばでも気軽にお参りできます。

▼本殿はしょぼいんですけどね。

▼前日の雨天もあり参道脇のコケが美しいです

▼参拝者が少ない雨上がり朝の参道は、ちょっと神秘的。本殿よりこちらがメインディッシュな感じ。

▼熊鈴
復路ですれ違う参拝者は皆、熊鈴を下げていました。確かに今年は市街地での熊出没が多くニュースになっており、普段の生活とはかけはなれた北陸での出来事に、ハッとさせられた瞬間でした。ちなみにその熊鈴、参道入口で貸し出してました。
▼白山信仰
白山神社は、北陸3県と岐阜にまたがり連なる白山連峰を信仰する山岳信仰の神社で、総本山は加賀ノ国石川にあります。起源ははっきりしないようですが紀元前後という話もあるようです。山岳信仰は偶像崇拝よりもずっと昔からあるのでしょうし、ほんとの起源はもっともっと古いのかもしれませんね。
なお、白山神社は全国あちこちにありますが、この山岳信仰と無関係のものもたくさんあるようです。
勝山城
平泉寺白山神社を出発してすぐ、メイン道路に出る手前に勝山城があります。
が、イミテーション。真横を素通りし、更に九頭竜川河川敷を鉄道沿いの田舎道に沿って永平寺へ向かいます。
▼永平寺へ向かう途中。右手の茂みは分かりにくいですが河川敷です。こんな道がしばらく続きます。
曹洞宗大本山
永平寺
ナビでテキトーに進んで永平寺口駅に到着。
と思ったら永平寺はそこから5キロほど山間を進んだ先。神社仏閣系は口(クチ)というワードに騙されてはいけません。修行の道です。。
ようやく参道に到着すると、山間の狭い道沿いに所狭しと駐車場と店が並んでいます。唯一信号があるメイン交差点前の駐車場に車をとめました。
▼参道はそれほど長くありません。
そして、やたらと蕎麦屋があります。福井はおろし蕎麦がメジャーのようです。お腹も空いてきましたが、更科系の白めの蕎麦でイマイチ惹かれませんのでランチは先送りに。。
そのかわりという訳でもないですが、二人で孫の手を買いました。激安です。永平寺の刻印入りで300円。でも何故か刻印ナシのただの孫の手も一緒くたに売られており200円。二人は迷わずただの孫の手を購入。20数年ぶりの永平寺も、激安ただの孫の手には勝てませんでした笑
参道を抜けると永平寺入口です。


永平寺は道元(1200年〜1253年)が開いた曹洞宗(臨済宗などを含む禅宗の一つ)の日本に2つある大本山の一つ。もう一つは横浜市鶴見区の總持寺。
ニ百名程度の修行僧が詰める大きなお寺です。大規模な建屋、大木が立ち並び荘厳な空気が漂う敷地、敷地内に張り巡らせた近代的な屋内参拝通路。規模や外観はさすがという感じです。
▼ばあばは、入口左手の宿泊施設と思われる写真奥に写る建屋を見て、ようやく20数年ぶりの永平寺を思い出したようです。それほど前回の印象が薄かったそうな。
手を清めて拝観料300円を払って中に入ると…
▼平成になって作られた天井画なので、歴史情緒はなく近代に引き戻されます。でも素晴らしい出来。

▼中庭もいいんですけどねぇ。

コンクリート製の近代的な建屋もいくつかあり近代的な屋内参拝通路を靴をスリッパに履き替えて歩き回っての拝観です。鎌倉時代から続くお寺ですが、土や風の匂いとか静けさとか、そういったものを肌で感じながらの参拝とはかなり趣きが異なります。
好き好きだと思いますが、京都や奈良、木曽路や甲州街道などの飾っ気の少ない古刹巡りをした方には、少し無機質に感じるかもしれません。20数年前に永平寺を訪れたときの印象が薄いのはそのためかも。
駐車場に戻ると、近くにある一乗谷朝倉氏遺跡に向かいます。
一乗谷朝倉氏遺跡
トンネルを抜けて、少し走ると道沿いに現れます。
その昔に捨てられて廃墟となり、草木に覆われ、土に埋もれた遺構を五十年前に掘り起こされた場所です。
なので基本的に基礎部分が残っているだけ。渋めのスポットです。歴史を知り、思いを馳せ、結構妄想できないとダメです。時短のためここは素通りです。
▼Wikipediaより
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる
軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。
しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。
文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。
戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。
1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。
1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義昭(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義昭を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。
しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策した。
1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆勢が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた(越前一向一揆)。
信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
優れた造りの庭園も堆積する土砂に埋もれたが、1967年(昭和42年)に発掘が開始され注目されるようになった。
▼お腹がペコペコなので近くの蕎麦屋を検索。蕎麦も少し黒めで、いい感じの蕎麦屋を発見しました。

▼古民家の老舗蕎麦屋な感じの店内。でも聞くと創業は20数年前。演出ですな。

大きな切り株のテーブルが3卓だけ。年配のご夫婦が先客で二組。我々で満席。常連な感じで、店内を見回すでもなく、ざわつくでもなく。古い時計の音がカチコチと少し大きく聞こえてくる。メニューは五百円のおろし蕎麦だけ。先客の皿を見て大盛りはできないので2枚オーダー。これは期待してもいいのではないでしょーか。静寂の中、蕎麦の出来上がりを待ちます。
しばらくするとお待ちかねのお蕎麦登場です。ネギと辛子大根。蕎麦に直接少しつゆがかかった冷蕎麦ですね。

食べてみると、
ひとくち目。
口の中に蕎麦の香りが広がります。
いい感じー
ふたくち目。
少しつゆに絡めて口に運びます。
あれ?
味うすっ!!!
更に煮出したかつおの風味満載のつゆが、蕎麦香りを根こそぎかき消してくれてます。
三口、四口、五口…延々と味気も香りも掻き消されたコシの弱い物体を、かつおの香りで流し込んでいく作業が続きます。そしてそれは次第に拷問のように感じてきます。
テーブルに備え付けの調味料は七味唐辛子のみ。塩加減の調整は不可能。七味は蕎麦の香りを更に上書きします。かと言って、小さなお店のこだわりの蕎麦に、一見さんの観光客が塩をよこせというのも違う気がして、最後までこのお店のこだわりにしばらくお付き合いする道を選びました。
そしてそこに、ついに限界を超えて余ったばあばの蕎麦ヒトサラが、更に私に襲いかかってきました泣
蕎麦の香りを楽しみたい空腹の蕎麦ファンにとっては想像のナナメ上を行く一品でございました。。
この超薄味のお蕎麦は福井名物おろし蕎麦の中でも異端なのかもしれませんが、蕎麦にかつおつゆをかけて香りをかき消すスタイルは我々には合わないようです。
▼Wikipediaより
越前おろしそば(えちぜんおろしそば)・越前そば(えちぜんそば)は、福井県嶺北地方で主に食される蕎麦。強力粉を繋ぎとした蕎麦に大根おろしを乗せて出汁をかけたり(ぶっかけ)、大根おろしに出汁を加えてつけツユにして食べる(つけそば)など、大根おろしを利用することから、「おろしそば」とも呼ばれる。
想像するに、蕎麦の香りを打ち消すようなカツオつゆをかける点から、蕎麦そのものを第一に考える高級蕎麦の路線とは全く異なり、嶺北地方で愛される安価な大衆蕎麦として定着したものかと。そして強力粉でつないでるので、喉越しを楽しむ蕎麦ではなく食べる蕎麦らしい。
でも、この店はそんな感じの麺ではなかったです。固くもなく、コシもなく、ゆで蕎麦って感じ。。恐らくは塩味を抑え、蕎麦そのものが主役でない形で、蕎麦、カツオつゆ、大根、ネギ、それぞれの素材を楽しんでもらうことを志向したのかと。
しかしカツオつゆは、カツオのしつこい嫌な残り香が尾を引く感じであり、そもそも蕎麦そのものの魅力を犠牲にして大衆蕎麦として定着したものを、無理に素材を楽しませる方向に戻そうとして、訳がわからないことになってる。そんな感想です。
このあとしばらく口の中に留まり続ける頑固なカツオの香りと一緒にドライブを続けます。国道8号線で福井市内を抜けて 丸岡城・東尋坊を目指します。福井市内は、それまでの田舎道から一転、交通量が多く、渋滞しながらのドライブでした。
丸岡城
そしてようやく北陸唯一の現存天守、丸岡城に到着です。
▼陽が少し傾いて逆光一枚。


▼犬山城に匹敵する大変急な階段を、ばあばも頑張って登り降りしました。


▼わたくしのみ最上階へ。

▼Wikipediaより
丸岡城(まるおかじょう)は、福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城である。別名霞ヶ城。江戸時代には丸岡藩の藩庁であった。現在は天守のみ残る。
安土桃山時代・江戸時代
1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。
1582年(天正10年) 本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を城代として置いた。
1583年(天正11年) 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝(修理亮)を置いた。
1600年(慶長5年) 丹羽長秀死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者である西軍方につき改易された。越前国には勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。
1612年(慶長17年) 今村盛次は越前騒動に連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重[5]が4万3千石で新たな城主となった。
1624年(寛永元年) 福井藩2代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。
1695年(元禄8年) 4代重益の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。
近現代
1871年(明治4年) 廃藩置県により廃城となり天守以外全て解体された。
1901年(明治34年) 残された天守は、丸岡町により買い戻され解体を免れ、城跡は公園となった。本丸を囲んでいた堀は、大正後期から昭和初期までの間に徐々に埋められ消滅した。
1934年(昭和9年)1月30日 天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定される[6]。
1948年(昭和23年) 福井地震のために倒壊。
1950年(昭和25年) 文化財保護法(新法)施行により天守は重要文化財に指定される[7]
1955年(昭和30年) 倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された。
1990年(平成2年) 「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(36番)に選定された。
丸岡城を後にして、今回の旅の最終目的地に設定した東尋坊へ向かいます。既に福井市内からは外れており、田んぼが広がる田舎道を日本海に向かって西へ20キロほど走ると到着です。
東尋坊
エレベーター降りたら東尋坊という一番近いお店の駐車場に停めます。写真よりも更に左側にも駐車場と店舗が広がっており、それら店舗の裏手が土産物屋やカフェが立ち並ぶストリートになっちゃってました。
ちなみに、ばあばは初めて。私は2回目です。以前訪れたときよりもかなり観光地化されてます。自殺の名所で有名ですが、昼間は無理ですね。とにかく人多過ぎ。

その後、再び往路と同じ九頭竜湖経由で帰りました。愛知県犬山までのナビの到着予想時刻は8時でしたが、スイスイ進んで7時くらいに到着。出発時、メインディッシュは永平寺のつもりでしたが、振り返ると東尋坊が一番でした。いろいろなハプニングで笑いと尿もれが耐えない楽しい旅となりました。おしまい。